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林市藏が大阪府知事だった一九一八(大正七)年に府方面委員制度が創設されたこと、それは市藏が発想したものとの認識が一般化していること、そのため「方面委員・民生委員の父」とされていること、この経緯が多少歴史的事実とは異なっていること、戦後に淀屋橋南詰めに全身像が建立されたことは、本コラムで既に紹介した(※1)。生地熊本でも、城に至る行幸橋のたもとに一九五八(昭和三十三)年に建てられた胸像があり、やはり「民生委員の父」と紹介されている。
林市藏は、一八六七(慶応三)年十一月二十八日に、父林愼藏と母喜壽のもとに生まれた。生家は、筒口村(横手村を経て一九二一年熊本市に編入、現横手二丁目辺り)にあったとされる。付近は城下の西玄関口で、高麗門という城下門のすぐ外側であった。したがって防衛のため武家屋敷が配置され、高麗門外とも称されていた。しかし市蔵の本籍は、熊本市昇町(江戸期は幟衆の集住地、現熊本市中央街)であり、愼藏が十五石四人扶持の切米取り(薄給の武士)であったことからすると、維新前後に移り住んだのかもしれない。どちらにせよ武士(士族)の嫡男として生まれたのである。
ところが父は、一八七二(明治五)年五月十一日に病死した。市藏が五歳にもならないうちに、母一人子一人になったのだ。母は、藩医であった野田淳朴の妹である。淳朴の息子野田政雄(後に寛)は、一才年長の秀才。後に旧制熊本中学校(現県立熊本高校)の校長を二十五年間にわたって務めた。市藏はこの政雄と兄弟のように育ち、ともに勉強した。
市藏は春日小学校に通ったとされるが、これも歴史的事実と少し違うようだ。一八七二(明治五)年に春日村岫雲院(俗に春日寺)を借りて春日学校として開設。初代主席教員(校長)の吉田泰造が開明的な人で、文部大丞の視察によって近辺で唯一の正則小学校(学制に則った学校)とされた。そのため、遠方からも子どもが多く集まり、寺院の借用では間に合わなくなった。そこで、一時的に春日村と横手村の協力で校舎を新築し、教員を確保したのが、市藏が通った「華陵小学校」であった。この華陵小学校が後に再度分離したのが、現存する熊本市立春日小学校である。
この頃母は、寝たきりの姑を抱え、「林の雑巾」と陰口を叩かれるほど粗末な服装で通し、煙草巻きの内職で家計を支えたという。市藏が上級生からいじめられて学校から逃げ帰ったある夏の日、厳しく叱って登校させた。そして下校後にはやさしく迎え、めったに口にできない西瓜を食べさせつつ、士族の子として強く生きよと説いたエピソードも残されている。
その後、政雄とともに「熊本中学」を受験した。この「熊本中学」は、先述の旧制熊本中学とは別物である。一八七九(明治十二)年に設置された学校で、教育方針もカリキュラムも文部省の基準に合っていた。生徒も洋式に自由主義、個人主義で立身出世を志し、進歩的であったという。政雄は合格したが、市藏は失敗し、一年間小学校の校長明石鑑次郎氏の家塾「華陵塾」に通った。これは漢学塾で、後述する鳥居赫雄(素川)とは、この塾以来の「腕白仲間」であった。翌年には合格したが、政雄は既にやめており、済々黌(現県立済々黌高校)に通っていた。そのためかどうか、市藏も後を追った。
済々黌は、西南の役で学校党熊本隊の小隊長として戦った佐々友房が服役し釈放されて後、陋屋で同心学舎を設立したのが発祥である。それを引き継いで一八八二(明治十五)年二月に設立された時は、現在地(熊本市黒髪)ではなく、城に近い高田原相撲町(現熊本市中央街)にあった。皇室中心、国家主義を建学の精神とし、創立時から生徒の気風はバンカラで、質実剛健の気概に富み、時代を担うという気が壮んであったという。
政雄改め寛は一八八五(明治十八)年に済々黌を卒業しているが、市藏ははっきりしない。当時の家庭状況を考えれば、一部の科目だけを履修した専科生であったのか。また賄い付きではなく、帰宅後食事してから寄宿舎に戻る「泊り通学生」であったのか。済々黌時代の市藏については、安達謙蔵(後に内務大臣・逓信大臣)、山田珠一(後に初代九州日日新聞社社長・熊本市長)および鳥居素川(後に大阪朝日新聞編集局長)と並べて紹介している資料がある。これによれば市藏は、暴れん坊タイプの秀才たる「鳥居の仲間」となっており、「山田以外は中退組」と明記されている(※2)。
ところで、後の日露戦争では多くの済々黌卒業生が士官戦死者となっているが、この時でも軍学校への進学者も少なくなかった。したがって士族の市藏が経済状況も考えて、官費で進学できる軍学校を選択する道もあったはずだが、母一人子一人で母親思いの市藏は、軍人は避けたかったのだろう。折しも第五高等中学校(後の五高)が創設されることになり、市藏に地元で上級学校進学のチャンスが到来した。
五高入学は、一八八八(明治二十一)年十一月である。この年の入学は、五高第一期入学生にあたるが、市藏は仮入学であった。同学年卒業になる赤星典太は、正規入学である。翌年に予科三級に進み、本科二年と合計して都合六年、卒業は一八九二(明治二十五)年七月で第二回卒業生となる。
五高は、開設翌年までは古城町の仮校舎(現、熊本第一高校の地)だったので、市藏は自宅から通えたが、翌年、黒髪の新校舎に移った。ちなみにこの「新」校舎は、現在も重要文化財「五高記念館」として熊本大学構内に現存する。黒髪移転後は、「習學寮」に入って、第二期の炊事委員になっている。この頃、寮自治とは「自炊制」とほぼ同義であり、「賄征伐」(寮生による食事請負業者に対する嫌がらせ)を防ぎ、満足できる食事を確保するのが一大事であった。市藏は、人望があり炊事委員を無難にこなした。課外活動では、一種の生徒自治会「龍南會」で、撃剣部委員をしていた。
卒業後は、上京して帝大法科に進み、約四半世紀の官僚生活を経て、大阪府知事を最後に依願免本官。その後、民間会社の重役を歴任したが、晩年まで大阪府方面委員顧問であり続け、占領期にはGHQ担当官と交渉し、民生委員制度の確立にも寄与した。帝大進学のため上京後は、再び故郷に住みつくことはなく、兵庫県西宮市で八十五年の生涯を閉じた。
ところで一九三七年(昭和十二)年に九州新聞(現熊本日日新聞)記者は「関西實業界の巨星たる林市藏」と紹介している(※3)。また「五高記念館」に「五高人脈の一角より」と題した展示があり、第二回の卒業生として赤星典太を「長崎県知事」、市藏を「日本信託銀行初代頭取」と紹介している。この両方ともが事実だが、意外の感がある。当時も今も地元での評価はこういうものかも知れない。
菩提寺の安住山長國寺は日蓮宗で熊本市横手にある。盛大な墓前祭が催されたこともあったようだが、今は墓地整理の進む中で、取り残された感が漂うばかりである。
※1 「方面委員創設秘話−林市蔵」『月刊ボランティア』2001年5月号
※2 寺西紀元太『濟濟黌物語』西日本新聞社.1972
※3 吉田千之『龍南人物展望』九州新聞社.1937
主な参考文献
『熊本県公文類纂8-45有禄士族基本帳明治7年33冊ノ内3』(モコア8-45)(熊本県立図書館所蔵)
宇野東風『我觀熊本教育の變遷』大同館書店.1931
『習學寮史』第五高等學校習學寮.1938. 『五高五十年史』第五高等學校.1939
香川亀人『民生委員の父−林市藏先生傳』広島県民生委員連盟.1954
『春日校創立百周年記念 春日の歴史』春日小学校創立百周年記念事業期成会.1973
『濟々黌百年史』濟々黌百周年記念事業会.1982
本田不二郎『教育熊本の伝統』城野印刷所.1985
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