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市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2005年1・2月号(通巻402号) 目次に戻る
「普遍的なものは普遍的だ」と私は言ってみたかった

映画監督 森ア 東さん
No.209

●森ア 東さん・プロフィール●

1927年長崎県生まれ。映画監督兼シナリオ作家。56年松竹入社。69年に『喜劇女は度胸』で監督デビュー。その後も庶民派喜劇を作り続けていくが、単なる笑いや涙だけの喜劇ではない。自身の喜劇を「怒劇」というように森ア作品には、世の中の秩序からはみ出しながら、たくましく生きる人々の姿が描き続けられ、「怒りの表現が笑いと涙をかきたてる」と言われる。主な作品に、『男はつらいよ フーテンの寅』(シリーズ第3作)、『時代屋の女房』、『生きてるうちが花なのよ、死んだらそれまでよ党宣言』、『夢見通りの人々』等々、そして新作『ニワトリはハダシだ』がある。

―知的障害者を描いた最新の映画『ニワトリはハダシだ』というタイトルはどのようにして決まったのでしょうか。また、タイトルに込めた思いもお話し下さい。

 最初に考えたタイトルは『五六億七千万年の遅刻』でした。仏教の教えに、弥勒菩薩は未来に下界に降って衆生を救うというのがあるんです。中国の伝承では、それは釈迦が死んで五六億七千万年後とされる。それまでにも菩薩が知的障害者などになって、人間の堕落を見に来るというのです。

 それをヒントにこの映画では、知的障害のある主人公のサムを最高に素敵な笑顔で笑う菩薩にみたてて描いたんです。養護学校の教員でヒロインの直子には、サムに対して叫ぶこんなセリフも用意しました。「五六億七千万年後に助けに来るなんて遅すぎる。ボサツのくせにそんなサボタージュはやめろ! そんなことしている間に、冤罪で捕まってしまうじゃないか!」。でもプロデューサーから観念的だからやめろと言われ、もっとズバリのタイトルをと考えて『ニワトリはハダシだ』に変更したんです。直子のセリフも、直子の母親が直子に向かって言う「あんた救うてくれるんは、菩薩そっくりのあの子ら(知的障害者)だけやで」に変更したんです。

 昔、撮影所のスタッフ二人が突然喧嘩を始めたことがありました。話を聞いてみると、「日本の敗戦をいつ知ったか」という、私にすればまぁ、実にくだらないことで喧嘩しているんです(笑)。昔、海軍にいたという一人は、戦場の散々な結果とツー・トン信号のやり取りから、敗戦を玉音放送より以前に知っていたと主張した。それに対してもう一人は、貴様ごときに天皇より先に敗戦を知るなんてあるわけがないと、本気で怒っているわけです。そして、最後には「ニワトリはハダシだ!」と。きっと、彼のこれまでの人生の中で、とても認められない主張だったんでしょうね。「これだけはどうしても譲れない」という人生哲学というか…。そもそも辞書には、「ニワトリはハダシだ」とは、「当たり前のこと」という意味だとあります。しかし、そんな簡単な言葉では表すことができないような、日本の底辺の人たちの人生観や世界観が、この表現には詰まっていると思うんです。社会の底辺で生きている人々の生活の中にしっかり根づいている表現なんです。そういえば私も助監督時代に、「助監督は走らんかい! ニワトリはハダシや!」とよく大道具のおじさんに怒鳴られたものです。

―重度の知的障害のあるサムは、人並み外れた記憶力を持っていますね。その能力が災いして、警察の汚職事件に巻き込まれます。監督は知的障害者をどうとらえておられますか。

 なぜ、障害者を描いたかというと、一つは、この世に知的障害者が一定の割合で生まれてくることへの問いです。現代の科学も医学も哲学も、なぜ知的障害者が生まれてくるのかという問いに答えることができません。その問いに答えることが映画の目的ではないけれど、こんなことをきっかけに知的障害者の子どもを撮ろうと思いました。

 もう一つは、ある障害児の母親が言った言葉です。「世間からあの子を隠そうとは思わない。逆にあの子の面白さを見せたいくらいです」。この言葉を聞いたとき、それなら、なにもお母さんが見せて歩かなくても、私が映画を作って広く伝えようと思いました。知的障害者の中には、一度見た風景を写真のように覚えている人がいます。一目見ると現実に目の前にいなくても、例えば鳥の絵などを上手く描くことができる。知的障害者のこうした能力は、一般的には大変優れた能力だと理解されますが、何も特別な現象ではない。知的障害者であるその人にとって、当たり前の才能なんです。特別なものではない、当たり前のものとして、それを描きたかった。

 それに、以前、自閉症の子どもを描く米国の映画を見たのですが、その作品で子どもはまるでエイリアンのように描かれていた。それがいかに忠実な再現だとしても、障害のある子をそんなふうには描きたくなかった。私は彼らが持つ、もっと素晴らしい笑顔を描きたかった。だから今回も、何だか胸が温かくなるような、笑顔の素敵な男の子を主人公に選びました。

―タイトルの深い意味とは別に、「ニワトリはハダシだ」と言われて人は初めてハダシだという「当たり前」のことに気が付くという面を持っていますよね。

 今の時代「ニワトリはハダシだ!」と言わないと、ハダシでいることに多くの人は気がつかない。だから、そんな時代に対して、映画を作る側としては、「ニワトリはハダシだ!」と言っていく作業が必要なわけです。「知的障害者にとって、そのような能力は当たり前のものだ」という視点ですよね。言い換えれば、「普遍的なものは普遍的だ」と私は言ってみたかったんです。

―監督の喜劇は単なる喜劇ではなく、「怒る喜劇=怒劇」だと言われていますが…。「怒り」という感情についてお聞かせ下さい。

 僕の作品はすぐに「喜劇」とつけられるんですけど、そう言われるのは本当は嫌なんですね。作品には人間の感情である喜怒哀楽すべてをぶち込むから、もちろん「喜」だけじゃないんです。でも、よく知らない人にはそう思われてしまう。

 中でも、人間の「怒り」の感情なんか、とても大切だと思うんです。たとえば、僕は観ていないから正確なことは言えないんですが、一九三〇年に上映された鈴木重吉監督の『何が彼女をそうさせたか』という映画がある。貧しい家の娘が伯父の家に引き取られたことをきっかけに、曲芸小屋に売られたり、犯されそうになったり、心中して一命を取り留めるんだけど、最後は教会に火をつけ逮捕されるという、どん底の人生にあえぐ少女の姿を描いたものだ。この作品には、その上映が終わったとき、観客が総立ちで拍手したという伝説が残っている。何に対して、観客は拍手したのか。それは彼女の「怒り」に共感して、激しく反撃した姿に感動した拍手だったと思うんです。

 確かに「怒り」という感情は、一見美的ではないかも知れない。でも同情して、涙して、そして心の底から怒る。それは美しいことだと思う。高貴な感情だと思う。そして怒りを笑いにまで高めていく、それが「喜劇」なんだと僕は思っている。怒りの感性が抜け落ちた映画は中途半端な気がするし、笑うだけの映画も差別的な気がするんですよ。僕の作品でも、そんな人間の感情が描けたらと考えています。

      インタビュアー・執筆 山浦 純

映画情報「ニワトリはハダシだ」
監督・脚本:森ア 東/配給・宣伝:ザナドゥー/上映時間 1時間54分/2003年度作品
出演:肘井美佳、浜上竜也(子役)、倍賞美津子、原田芳雄ら
 重度の知的障害のあるサム(15)は、人並みはずれた記憶力を持っている。しかし、その能力が災いして、警察の汚職事件に巻き込まれてしまう。権力を盾に冤罪をサムに押し付けようとする人々からサムを救い出すため、養護学校の教師、一緒に暮らすチチ、在日朝鮮人のハハらが立ち上がる。2005年1月29日から第七藝術劇場(大阪市)、2月5日からMOVIX京都(京都市)、その後シネマクレール(岡山市)、KBCシネマ(福岡市)でも上映予定。

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Volo(ウォロ)は大阪ボランティア協会が発行する 市民活動総合情報誌であり、オピニオン誌です。
『月刊ボランティア』創刊1966年。『Volo(ウォロ)』と誌名を変更して2003年新創刊。一貫して「市民が主体的に関わることの大切さ」を伝えてきました。分野・セクターを越えた社会的課題に市民がいかに関わるかを独自のアプローチでタイムリーに発信しています。