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市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2004年12月号(通巻401号) 目次に戻る
「押しつけ」ではなく
 子どもたちが自由な立場で自然に学びとってほしい…
   「平和」と「人権」の大切さを


「平和人権子どもセンター・教科書資料館」代表
吉岡数子さん
No.208

吉岡 数子さんの写真1

●吉岡 数子さん・プロフィール●

「平和人権子どもセンター・教科書資料館」代表。1932年朝鮮に生まれ、37年旧「満州」(現・中国東北部)へ移る。55年京都学芸大学卒業後、大阪市・堺市にて小学校教諭として勤務。91年に退職後、堺市の「平和と人権資料室」(後の「平和と人権資料館」)に5年間嘱託勤務。97年4月、退職金などを投じ同市にて私設「平和人権子どもセンター」開館。翌年「家永教科書裁判訴訟支援大阪地区連」からの教科書寄贈(約4300冊)を機に「教科書資料館」を併設。約6000冊を超える国内外の教科書や約1400枚の自製教科書パネルなどを蔵し、「平和・人権・子ども」に関する市民活動の拠点として広範囲な調査研究・教材づくり・出前展示・講演などを行っている。

 

―住宅を活用されているせいか、親しみやすい雰囲気の伝わる館内ですね。

 一番の特徴は「開架展示」でしょう。読みたい教科書はすべて、誰でも手にとって開けられます。教科書というのは普段は自分自身か、自分の子どもか、あるいは教員として自分が教えるものしか目にしない、ちょっと特殊な書籍です。四年に一回変わるし、版元によっても記述内容が違う。でも私たちのような「国定教科書」世代は、教え込まれたことを今も「正しい」と信じている人がとても多いんですよ。だからこんな場所をつくりたかった。こうやって年代別、あるいは国別にして一堂に展示すれば、いろいろ自由に取り出して比較し合ったりできるでしょう。同じ事実なのにあんなに表現が違うとかね。

 二十六坪に満たない私設資料館を一人体制で開館して八年が経ちます。出前展示・講話を含めると、のべ一万五千人以上が利用してくれました。教科書やパネルの他、「平和・人権・子ども」をキーワードとした絵本、一般書、市民活動の会報、チラシ、パンフ、ビデオ、写真に至るまで可能な限り分類整理しています。ほとんど私が収集したものです。教え子が来て「残るは天井やね」と笑うほど、今や階段、壁面、台所まで資料やパネルに埋め尽くされてしまっています。

―資料館を開いた原点は、吉岡さんの子ども時代にあるらしいですね。

 私が物心ついた頃、朝鮮総督府の農務官吏だった父と私たち家族は全州の官舎に住んでいました。かつて母が「桜の時期には各官舎の家族を招んで大園遊会をした」と語っていたように、実に広々とした邸宅でした。朝鮮人の使用人だった「ハイさん(少年)」と「アイさん(少女)」は私ともよく話をしましたが、アイさんは、何度も「ここは私の家だった、ここは私の家だった…」とつぶやいていたのです。子どもの私には意味もわからないまま、彼女の言葉だけがずっと記憶に残っていました。

 その後、父の「満州拓殖公社」赴任にともない、一九三九年、首都「新京」(現・長春)の小学校へ入学しました。低・高学年用の二つのプール、暖房、水洗トイレと設備も至れり尽せり。入学記念のクラス写真は、校門前にあった「日露戦争戦勝記念」と言われた戦車前でした。

 「こんな楽しい学校なのに、中国人や朝鮮人の子どもたちはなぜ来ないのだろう…」といつも不思議でした。「国民学校令」が出た三年生からは、軍国主義による厳しい教育で学校が嫌になり、「中国人や朝鮮人の子どもたちは学校へ行かなくていいなあ…」と思ってしまいました。

―子どもの眼から見て腑に落ちなかった疑問は、その後解決したのですか。

 本当のことがわかったのは三十年以上も経ってからですね。教員時代の研究会で、「日本は朝鮮を植民地とし、農民たちの土地を略奪し、また産米増殖計画のもとで農民が米を食べられない状況に追い込んだ」という事実を詳しく知り、はじめて父の仕事の意味や、アイさんたちの立場が想像できたのです。

 二人でいるときは私の知らない言葉(おそらく朝鮮語)で喋り合っていたハイさんとアイさん。私たちが近づくと咄嗟に口を押さえていた情景。これらが次々フィードバックされ、「そうやったのか…」と胸が締めつけられるような思いになって…。

 八二年の「第二次教科書攻撃」(※1をきっかけとして、その後二十年余り「謝罪」のため、そして「真実」を知るために、のべ三十三回の訪韓・訪中調査を行いました。聞き取り中心のフィールドワークを重ねて明らかになった「新京」の実像とは「中国の古い街を破壊し、新しい都市計画のもとに日本人が造成した。そこでは徹底した民族差別が行われ、中国人はとても通学できないような郊外の学校に締め出されていた」ということでした。

 当時の国民学校での教育は国定教科書の「丸暗記」がすべてです。歴代天皇の名前や教育勅語など一字一句でも間違えば、たちまち「非国民」呼ばわりですよ。そうやって信じ込まされた「五族協和(漢民族、満州族、朝鮮族、蒙古族、日本人が『満州国』建国のために協力すること)」や「八紘一宇(世界をひとつの国家に見立て、その頂点に日本が君臨すること)」などの裏には、このような悲惨な現実があったのだと忸怩たる思いでした。

―事実を知ったことがその後の人生を決定付けた。教職を志されたのも、そこに端を発したものですか。

 強く影響された出来事が二つあります。小学校入学の日、黒板いっぱいに山を三つ描きながら、「私は、内地のこのような山の下で生まれたので山下といいます」と自己紹介をしたのが、一年の担任の山下先生でした。次の日は川とめだかが書き加えられ、それらを数えながら「めだかの学校」や「春の小川」を歌ったこと…。今から思えば先生は見事な「総合学習」の実践者でした。しかも「国定教科書」を使わず、自らも編纂に加わった「満州補充読本」をベースに、創造的な授業を組み立てていたのです。おそらく治安維持法ギリギリの試みだったと思います。

 戦車の前で撮った写真も、当時では稀な男女混合・自由隊形。子どもたち一人ひとりが生き生きしています。現在でも小学校の記念撮影は、男女別、背の順に整列したものがほとんどですから、子どもの自由を尊重した山下先生の教育方針の素晴らしさが伝わってきます。

 また四五年の敗戦直後、日本へ戻って女学校一年生になっていた私が最初にさせられたのは国民学校六年生用国史・修身・国語教科書の「墨塗り」です。「間違ったところを消す」ためだと、べっとりと墨を付けてね。「東洋平和のための聖戦」「神国日本は絶対に負けない」と教えられ、開くときには礼をし、雑に扱うとたちまち「非国民」と叱られたその教科書を…。

 理由も一切告げず、手のひらを返したような態度で平然と指示する先生を睨み返しながら、私は決心しました。「絶対に先生になる。教科書を使わず楽しい授業ができる山下先生のような小学校の先生に…。そして間違っても子どもたちに墨塗りはさせない…」と。

―教員になって、その思いは生かせましたか。

 新卒で就職した大阪市内の小学校で、文字や絵を使った「カード学習」を推進する先生と出会ったのです。折しも五五年、民主党(現・自民党)が「教科書偏向」を主張した「第一次教科書攻撃」の年でした。検定制度が事実上の検閲となり、また勤務評定の強行など、「楽しい総合学習」とは程遠いはずでしたが、私は幸運にもこの先生のもとで「カード学習」を存分に体得し、その後、体験学習から子どもたちの創造力を育てられるような総合学習を実践することが出来ました。

 結婚、出産で離職した四年後の六八年、堺市内の小学校に復職しました。そのとき取り組んだのは、障害のある子どもたちの人権や同和教育との関わりを視野に入れた「にんげん」(全教科指導用に設定された同和教育副読本・大阪府下で導入)を軸にした総合学習です。

 そして八十年代の後半からは、一番やりたかったことに力を注ぎました。アジアの戦争被害地への訪問を重ねる中で撮りためた、日本の植民地支配の傷跡を伝える写真をパネル化した教材・副読本づくりや、訪問地の教科書の収集です。中国、韓国に加えシンガポール、マレーシア、台湾、香港など、海外調査は現在までに四十回以上にもなりました。

 表向きは学習指導要領と教科書を基本にしつつも、中身は教科の枠を越え、子どもの興味、関心にあったオリジナル教材を開発する”隠れ総合学習“。三十二年間の授業スタイルであるとともに、今や私の生き方の核ともいえます。来館者にも活用してもらえたらと、総合学習の実践資料を館内の展示にも反映させました。 

―八年目を迎えた同センター・資料館から、今後どんなことを発信していきたいですか。

 「第三次教科書攻撃」(※2の延長として二〇〇二年四月、文部科学省による「心のノート」という道徳の副読本が全国の小・中学生に配布されました。そこにはかつて私が使った「国定修身教科書」を彷彿とさせる内容が巧妙に盛り込まれています。また当館にも収蔵していますが、五年前出版された単行本「国民の歴史」にも、「日本総督府時代が初めてハングルを普及させ、小学校教育に導入したものであることを…」と朝鮮語読本をつくったことに触れています。しかし実際に六年の朝鮮語読本を見ると、漢字が増え、ハングルが少なくなっています。実際の史料と比較し検証する機会がないと、このように事実と違った歴史認識が再び継承されることになりかねません。

 「沖縄は日本の長男、台湾は次男、朝鮮は三男、そして「満州」は四男になるために頑張っているのです」と教えられ、「大東亜共栄圏」の美名のもとの徹底した刷り込み教育により「在満少国民」に仕立て上げられ、子どもといえども侵略戦争に加担させられた。この私の体験をできる限り今の子どもたちに語り、戦争は最大の人権侵害だということを少しでも感じ取ってもらいたい。

 でも「これが正しい」という一方的な強制はよくありません。第二の「墨塗り」につながりますから。大切なのは子どもたちが教科書をはじめ、たくさんの資料を読み、比較検討しながら、時間はかかっても何が真実かを自分で判断していくことです。ここは、それができる場です。

 アイさんや山下先生は、私に二十世紀からの「宿題」を託したのかもしれません。その提出先は次世代の子どもたちだといえるでしょう。

編集委員 村岡正司


※1  第二次教科書攻撃(1980〜82) 80年、自民党政権下の閣議で「民族国家意識高揚」が決定され、教科書における「侵略、南京大虐殺」などの記述が「偏向」として検閲の対象となった(筆者)

※2 第三次教科書攻撃(1996) 96年、「従軍慰安婦と戦後補償」を記載した七社の教科書に対し、フジサンケイグループ、一部の学者が反発。加えて右翼団体などによる連日の街宣脅迫が行なわれた(筆者)



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Volo(ウォロ)は大阪ボランティア協会が発行する 市民活動総合情報誌であり、オピニオン誌です。
『月刊ボランティア』創刊1966年。『Volo(ウォロ)』と誌名を変更して2003年新創刊。一貫して「市民が主体的に関わることの大切さ」を伝えてきました。分野・セクターを越えた社会的課題に市民がいかに関わるかを独自のアプローチでタイムリーに発信しています。