目次に戻る   バックナンバー一覧
TOP
大阪ボランティア協会の案内
市民活動総合情報誌『Volo』
定期購読
バックナンバー
TOP > 大阪ボランティア協会の案内 > 市民活動総合情報誌『Volo』 > バックナンバー> まちを歩けば

市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2004年10月号(通巻399号) 目次に戻る

まちを歩けば −大阪の社会事業の史跡−

博愛社と小橋兄弟・林歌子・小橋カツヱ

 阪急十三駅は、梅田駅を出発した電車が宝塚線、神戸線、京都線に分岐する要である。その西口を出て一九四八(昭和二十三)年創業で酒饅頭老舗「喜八洲」本店の角から北西に四百メートルほど行った右手に博愛社がある。正門を入って右手、日本聖公会聖贖主教会の壁に沿うようにレインコートを身につけ、牛を曳く男性の石像がある。博愛社第二代社主、小橋實之助である。

 この實之助の兄、勝之助は、一八六三(文久三)年に播州赤穂瓜生村(現相生市矢野町瓜生)で小橋家長男として誕生した。やがて医師を志して弟を伴って上京する。東京で、高瀬眞卿を知り、東京感化院(児童自立支援施設の前身)を手伝う。ところが、一八八六(明治十九)年の聖夜、ふとしたことでキリスト教に触れ、神田基督教会に出入りするようになった。そこで聖公会のウヰリアムズ主教と交わり、受洗した。彼は主教に影響を受け、貧しく弱い者のために献身することにしたのである。このころ教会で立教女学校の教師をしていた林歌子と出会い、歌子の生涯を決定づけることになる。

 小橋兄弟は、翌年二月に母の病気のため帰郷する。看病の傍ら故郷でキリスト教の伝道を始めたために親戚からも絶交されたが、反面また同志も得られた。そして一八九〇(明治二十三)年に勝之助は實之助とともに博愛社を始めた。当初は、文庫(図書室)、貧民学校、貧民施療所、雑誌発行、感化院、孤児院を構想していたが、翌年に岡山孤児院の石井十次と交わり、その影響もあって孤児院が中心になった。農耕地が無い岡山孤児院と農耕中心の博愛社で役割分担もまとまった。

 しかし、同年の濃尾大地震で、勝之助は、病身にもかかわらず罹災児の救済に走り回った。一旦回復したが再び病魔が襲った。死を覚悟した勝之助は、信仰の友、林歌子に助けを求めた。歌子は、二度にわたる懇請に決意した。孤児の母となるという承諾の手紙を送り、一八九二(明治二十五)年八月二十九日、博愛社に到着した。この時、歌子二十九歳。だが翌年、勝之助はまだ三十歳にならぬ若さで天国に召された。

 総領であった勝之助亡き後、實之助と歌子に対して周囲は冷たかった。そのため一年後には財産を次兄の良之助に渡し、子どもたちとともに、援助者であった阿波松之助を頼って上阪した。こうして博愛社は大阪府西成郡鷺洲村大字大仁(現大阪市北区大淀中)の阿波家門長屋で活動を再開した。しかし現実は二人に厳しくのしかかる。借りた田圃で作った米がとれるまで、食うや食わずの日が一カ月以上も続いたこともあった。歌子は福島貧民学校(後の愛隣夜学校)の教師となり、給料を前借して子どもたちにひき割り麦を買ったりしたが、それもなくなると芋を食べた。

 そんなある日、歌子が女学校教師時代に世話をした娘の父親で、実業家の帆足義方(明治初期筑豊の炭鉱開発者)が訪ねてきて五百円の寄付を申し出た。それを元手に土地を求め、淀川の対岸にあたる同郡神津村大字三津屋(現淀川区十三元今里)にウヰリアムズ主教から寄付された家屋を移築して、自前の博愛社を出発させた。一八九九(明治三十二)年、創立後十年を目前にしてのことであった。

 こうして博愛社もどうにか軌道に乗ってきたので、歌子は第二代社長の實之助に、妻であり孤児の母となる女性を迎えようと探し始めた。その時、プール女学校で裁縫を教える山本カツヱに出会ったのである。カツヱも異存はなかった。一九〇四(明治三十七)年四月、二人は川口基督教会で結婚式をあげた。カツヱの花嫁衣裳は手織り木綿の紋付きという質素さであったが、嫁入り道具は實之助への洋服タンスと子どもたちのためにオルガン一台、着物と袴が七十六人分、寝具七十六人分、そして蚊帳十一帳であった。歌子は、探し当てた花嫁が最適だと喜んだ。

 それから間もなく歌子は、カツヱが遠慮せず手腕を発揮できるようにとの心遣いもあって、渡米し一年半近く滞在した。これには、博愛社のための資金集めという大きな目的もあった。アメリカでの活動は成功し、この時集めた一万五千円が博愛社第二期拡張資金の原資となった。

 これより先、博愛社が個人的経営を脱して、社団法人として体裁を整え始めた頃から歌子は次第に日本基督教婦人矯風会(禁酒・禁煙・廃娼問題に取り組む運動団体)の活動に熱を上げるようになっていた。女学校教師時代に矢島楫子を知り、発足間もない東京婦人矯風会会員になっていたのである。博愛社にカツヱを迎えてからは、活動に没頭していった。一九〇七(明治四十)年には、大阪中之島に矯風会大阪支部付属の婦人ホームを開設し、女性の保護と職業紹介にあたった。それ以来、歌子は婦人ホームに住み込んだ。

 さてカツヱを迎えた實之助は、一九十六(大正五)年に渡米する。この時にも三千数百円という寄附を集めただけではなく、里子制度や少人数のホーム制の徹底、職業教育やアフターケアなどの、今日の児童養護でも先進的な取り組みを成果として開始した。その後も新しい取り組みや建物の新築、建て替えをくり返し、日本の社会事業界で有数の地位を占めていったのである。しかし一九三三(昭和八)年、先年来体調を崩していた實之助は、還暦の年をもって永眠した。

 こうしてカツヱが第三代社長になり、翌年には財団法人として認可された。實之助亡き後に博愛社出身者の団体(芳交会)が、一緒に働いた姿を残したいとして建立した牛を曳く實之助の銅像は、この年に作製された。出身者には、農耕を日課にし、朴訥に励む實之助の印象が残っていたのであろう。この像は、戦時中国家に献納され、現在のものは一九六六(昭和四十一)年に石像として再建された。

 ところで、婦人ホームに住み込んでいた歌子は、土曜の夜には博愛社に一泊し、翌日の日曜礼拝に出て一日子どもたちの遊び相手となる生活が晩年まで続いた。一九三八(昭和十三年)には、矯風会第三代会頭に就任したが、戦争の激化にともない、矯風会活動は困難になっていた。こうして歌子は、一九四六(昭和二十一)年三月、戦争の終結を見届けるかのように八十一歳にして召天した。

 戦中の疎開の苦難を乗り越えて迎えた戦後、博愛社は児童養護施設となり、一九五二(昭和二十七)年には、社会福祉法人の認可を受けた。一九六四(昭和三十九)年、米寿となったカツヱは、實之助と結婚し子どもたちの母となって以来六十年の博愛社での生活を終え天に召された。

 その後も博愛社の歩みは止まることはなく、現在では、児童養護施設、保育所、特別養護老人ホームなどを経営する法人として活動を続けている。一九四三(明治四十三)年の阪急宝塚線開通以来、十三周辺も次第に市街化し、もはや農耕地は皆無である。しかし、カツヱの像と並んで立つ實之助の像は、博愛社の根本精神を今に伝えている。

編集委員 小笠原慶彰

[主な参考文献]
及川英雄『主備え給う−博愛社物語』博愛社.1965
『春夏秋冬恩寵の風薫る−博愛社創立百年記念誌』博愛社.1990
久布白落實『貴女は誰れ』牧口五明書店.1932

目次に戻る


Volo(ウォロ)は大阪ボランティア協会が発行する 市民活動総合情報誌であり、オピニオン誌です。
『月刊ボランティア』創刊1966年。『Volo(ウォロ)』と誌名を変更して2003年新創刊。一貫して「市民が主体的に関わることの大切さ」を伝えてきました。分野・セクターを越えた社会的課題に市民がいかに関わるかを独自のアプローチでタイムリーに発信しています。