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カニ道楽やグリコの看板で有名な「ミナミ」の南部に連なる大阪市浪速区恵美須からJR関西線「新今宮駅」を越えて南側、太子交差点西南の位置が西成区萩之茶屋、いわゆる「釜ヶ崎・あいりん地区」の中心である。釜ヶ崎は、江戸時代から明治期このかた日本橋から住吉街道沿いに生活困窮者が多く住みついてできた長町(名護町とも、現日本橋筋界隈)の住民を、明治末当時は大阪鉄道(現JR関西線)を挟んで市域外であった線路南側の今宮町(一九二五年大阪市編入)に強権的に移動させたためにできた街である。それは、木賃宿の排除による風紀取締りと一九〇三(明治三十六)年の第五回内国勧業博覧会を明治天皇が見学(七回)するための配慮等を理由としていた。
その釜ヶ崎の中心である「あいりん労働福祉センター」の目と鼻の先に社会福祉法人大阪自彊館の経営する「三徳寮」という救護施設がある。この施設名称は、大阪自彊館生みの親たる中村三徳に由来するものである。自彊館発祥地は、三徳寮からさらに五百メートルほど南下した西成区天下茶屋にある。明治の終わる一カ月前、最底辺労働者の共同宿泊所、無料職業紹介所として出発した事業も、現在では西成区、東淀川区、滋賀県今津町で更生施設、救護施設、身体障害者療護施設、特別養護老人ホーム等を経営する事業へと幅広く拡大している。
中村三徳は、一八七三(明治六)年、備前岡山の池田家旧家臣の家に生まれた。維新後父準平は旧主岡山池田家の執事のような仕事と私塾経営によって一家の生活を支えていたが、一八八二(明治十五)年に京都で客死する。そのため一家は窮迫し、三徳は苦学した後に大阪の商家奉公を経て二十四歳で大阪府巡査となった。
一九一一(明治四十四)年、大阪府警察部保安課長となっていた三徳は、釜ヶ崎の地に内務省調査団の一行を案内した。池上四郎府警察部長(後市長)や司法省を退き内務省に転じていた小河滋次郎(後府社会課長)も同行していた。釜ヶ崎の惨状はききしにまさるものであった。当時の「貧民窟」の状況については、鈴木梅四郎『大阪名護町貧民窟視察記』(一八八八年)をはじめとして、横山源之助、松原岩五郎など明治のライターによるルポによって報告されている。しかし、それよりも木賃宿を有料ダンボールハウスとイメージする方が実感できよう。いずれにしても人間が生きていける最低条件下での暮らしがそこにはあった。数日後、池上は三徳に釜ヶ崎でも人間らしい生活のできる宿泊所を作るよう命じた。
この頃の警察は、社会事業もその守備範囲としていた。これより二年後の一九一三(大正二)年に大阪市長となって社会事業行政を推進し、市に社会部を創設した池上警察部長のもとで、「警察三羽烏」と謳われ、社会事業に熱意を持った三人の警察官がいた。一人は、三徳より以前に保安課長であり、曽根崎警察署長になっていた武田慎治郎である。彼は、一九〇八(明治四十一)年保安課長の時に非行少年の更生施設である修徳館(現府立修徳学院―児童自立支援施設)の創設に携わった後、一九二三(大正十二)年に退職して私立感化施設「武田塾」(現児童養護施設)を開いた。また奇しくも三徳が内務省調査団を案内したその年に、難波警察署長であった天野時三郎は、貧困で教育を受けられない子どものために篤志家として夜学校(有隣、徳風両小学校、一九二三年に市立移管)を開校させるため尽力した。そしてもう一人が三徳である。
事業計画は立案できたが、予算がない。堂島演舞場で慈善興行を催し、寄付集めにも回ったし、募金運動もした。大日本武徳会大阪支部長を引きうけていた池上の伝で会から巨費が寄せられた。あくどい金貸しで通っていた「鬼権」こと木村権衛門は、土地九百四十坪を貸した。鬼権もただあくどいのではなかったようだ。この土地は一九六一(昭和三十六)年まで借地であった。建物は曽根崎、難波両警察署改築で余った古材の払い下げを受け、建築は鴻池組が格安で請け負った。ところが役所に提出する社会事業用の建築申請をどう書けば良いのかがわからず、「宿屋建物新築」としたため木賃宿主らの扇動によって工事現場が襲撃されるということが起こった。すぐに敷地内に巡査派出所を設置し、地元にも説明して回ったため騒ぎは収まった。こうして明治も残すところ一カ月余となった一九一二(明治四十五)年六月二十五日、三徳命名の私立大阪自彊館が開館し、翌年には財団法人として認可された。
余談になるが、開館前後の資料であろう「私立大阪自彊館規則」第一條には、「本館ハ私立大阪自彊館ト稱ス大阪府西成郡今宮村ニ第一館ヲ設ク(壹千坪ノ地ニ二階建テ約三百四十坪)第二、第三、第四館ハ大阪市東北西ノ三方ニ漸次増置スルモノトス」とあるので、市の東西南北に作る予定であったようだ。事実一九一三(大正二)年から約五年間、当時の西区天保町(現港区築港)に分館があった。平成になって北部(東淀川区東淡路)に新施設を設置したのは、八十年後の快挙と言うべきか。
開館五年後の一九一七(大正六)年には、市内八カ所に白米、木炭、醤油など生活必需品の実費販売所を設け、翌年には日本橋筋で安価な簡易食堂を始めた。前者は市公設市場へ、後者は市営食堂へと繋がっていった。この頃は米騒動前後の物情騒然たる時代であり、そうした状況を先取りした先駆的な事業であった。
一方三徳は、府警察部衛生課長、難波警察署長などを務めながら館運営に尽力していたが、一九一八(大正七)年に妻を喪ったこともあって、警察を辞し、中河内郡長となった。時に四十五歳。この郡長時代、後に館運営の中心となる吉村敏男と出会う。一九二一(大正十)年には、大阪毎日新聞社長本山彦一に請われて大毎慈善団主事となった。それにともない館を任せる人材として敏男を主事として招聘した。着任後の敏男は研究心旺盛で、一九二三(大正十二)年から月刊研究誌『自彊』を出し、それは二年後に東京で開催された第一回社会事業講習会に敏男が参加するために中止するまで続いた。敏男はそれらによって得た新しい知見を隣保活動や公益質屋などの事業として実現していった。
それから十数年、一九三四(昭和九)年に三徳は慈善団を退職した。翌年自宅敷地内で創設した大毎記念中村塾は、その後八尾隣保館として、また自彊館も吉村敏男の下で戦前・戦中の苦難を乗り越え、ともに大きく発展していった。この間も二人の協力関係は絶えることなく続いた。
一九六四(昭和三十九)年、三徳は九十歳の天寿を全うした。また敏男は、一九七五(昭和五十)年に八十二歳で没した。しかし、大阪自彊館も八尾隣保館も衰退することなく代々引き継がれ、さらに飛躍していっている。明治・大正期の警察行政には、闇に葬られた暗黒の歴史もあるだろうし、三徳ら警察官の社会事業への関与は治安活動の一環だとする見方もあろう。しかし、それでもなお自彊館発足にいたる経緯は忘れ去られずに記憶されていてほしいものである。
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