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市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2004年3月号(通巻393号) 目次に戻る

まちを歩けば −大阪の社会事業の史跡−

大毎慈善団と本山彦一

 北区堂島の堂島アバンザ桜橋側広場にかなり大きな御影石のモニュメントが残されている。梅田の新社屋に移転する一九九二(平成四)年まで毎日新聞大阪本社社屋として使われていた建物の正面玄関(一部)である。

 現在の「毎日新聞」は、一八七六(明治九)年創刊の「大阪日報」に源を発する「大阪毎日新聞」(大毎)と一八七二(明治五)年創刊の「東京日日新聞」が一九一一(明治四十四)年に合併し、一九四三(昭和十八)年に題号・社名とも統一した結果である。大毎は、「大阪日報」から「日本立憲政党新聞」、再び「大阪日報」、さらに「大阪毎日新聞」へと題号を変えた。本社も堂島に居を構えるまでに南区安堂寺橋通一丁目(現中央区南船場一丁目)から始まって七カ所に移転している。堂島の前は、一九二二(大正十一)年まで約三十年間、東区大川町五十五番屋敷(現中央区北浜四丁目住友本館ビル付近)にあった。後に平民宰相と呼ばれた原敬が社長を務めた三年余もこの時期で、原の在職時に大川町に新社屋が完成している。その時代に相談役となり、一九〇三(明治三十六)年に自身が社長となった本山彦一こそが、大毎を大朝(「大阪朝日新聞」)と並ぶ大新聞にするとともに、堂島新社屋への本社移転を実現させた。彼は死去する一九三二(昭和七)年まで現職にあり、本格的予算制度の導入、利益金の従業員分配、株式会社への改組など、当時は先進的であった改革に取り組み、常に大毎の発展を指揮した。

 この本山のもう一つの顔が「慈善病患者」である。明治・大正期社会事業の大御所留岡幸助がこう呼んだ。本山は、一八五三(嘉永六)年に熊本・細川藩士の長男に生まれ、十歳で父と、翌年には祖父とも死別した。本山を苦労して育てたのは母かのであった。この時の苦境が後年、慈善事業に取り組む素地になったといわれている。維新後は東京で苦学し、生活のため租税寮役人となった。この頃、福澤諭吉の知遇を得て慶應義塾への出入りも許されたという。その後、兵庫県庁に三年間奉職し、さらに大阪新報社に転じたが、再び、福澤が東京で興した時事新報社に移った後、一八八六(明治十九)年に大阪藤田組の支配人となった。藤田組は、長州奇兵隊員だった藤田伝三郎が興した陸軍用達の会社で土木請負業、鉱業、農林業などを手広く営んでいた。ここでは、山陽鉄道(現JR山陽本線)の建設と児島湾開墾事業の着手に采配を振るった。大毎の相談役となったのはこの時代であり、原社長を補佐する実質的な経営者であった。

 社長就任後、一九一〇(明治四十三)年十二月の社員総会で、慈善病が大爆発した。大阪毎日新聞が一万号を達成する記念事業として大阪毎日新聞慈善団(大毎慈善団、現毎日新聞大阪社会事業団)の設立を決めたのだ。新聞社が組織的な慈善事業を展開するなどということは、当時国内に限らず国際的にも稀有のことであった。本山は、資本金一万五千円を積み、毎年新聞代金、広告代金、利益金の一部を加えて増資するという。新聞社による慈善事業のための財団法人設立は、例のないことだけに手間取り、翌年八月になってやっと認可された。目的は、他の慈善団体の事業援助、災害などの被災者の救護、気の毒な境遇の人への援助、貧困者の診療の四項目であり、最初の事業は十月十五日の社告に載った「巡回病院」であった。貧困者の居住地域を巡回する無料の治療、投薬である。

 第一次の巡回病院は、南区木津勘助町(現浪速区大国)の浄土真宗本願寺派願泉寺で実施された。診療は内科・外科・眼科に分かれ、大阪高等医学校(現大阪大学医学部)の医師、看護師らが担当した。初日には内科七十四人、外科二十四人、眼科四十八人の受診者があったとされる。この巡回診療は、一九二一(大正十)年の第四十二次まで大阪市および隣接地域で行われた。同年からは「自動車施療巡回病院」と「病院船」による巡回が開始された。病院船は、大阪の水利を利用しようとするユニークなもので、河川に停泊して診療に当たった。最初は木造の「毎日丸」のみであったが、一九二七(昭和二)年には、最新医療設備を整えた一五〇トンの鋼鉄船「慈愛丸」が投入された。第一次以来一九三一(昭和六)年の第百十六次までの二十年間で二千六百三日、実数で十七万三千四百六人の患者が受診したと記録されている。

 この大毎慈善団初期の頃、ちょうど阪急が宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇)を始めた。この少女歌劇は、宝塚新温泉パラダイスの室内プールが時期尚早で失敗した後に水を抜いて客席をこしらえ、無料の余興として始められたものであった。一九一四(大正三)年の年末、これが大毎とタイアップして大毎慈善団巡回病院の慈善興業として大阪・北浜の帝国座、神戸・新開地の聚楽館で入場料(一等一円、二等五十銭)を取って公演したのである。ところが予想以上の好評で、一九二三(大正十二)年まで歳末恒例の行事として浪速座から中央公会堂へと大きな会場へ移りつつ、連続開催された。ちなみにこの成功で少女歌劇が入場料を取っても興行できるという自信になったという。大毎にとっても巡回病院を宣伝できたのであるから一挙両得であった。

 慈善団の事業は、巡回医療だけではなかったが、この成果は大きかった。慈愛丸はその後も一九三八(昭和十三)年まで巡回診療を続けたが、戦時体制への移行にともない、鋼鉄船であったがために金属として供出された。

 本山は個人的にも慈善事業に対して貢献していた。たとえば十三の孤児院博愛社(現児童養護施設)に本山館と呼ばれる建物があったが、これはきく子夫人の逝去に当たって記念に寄付したものであり、後には改修費も出している。また岡山孤児院創設者として有名で大阪事務所を開いてこの地でも事業を始めていた石井十次にもかなりの援助をしていたようである。さらには大阪最古で一九二七(昭和二)年に全焼した大阪養老院(現大阪老人ホーム)の再建にも多額の寄付をし、存亡の危機を救ったとされる。その他、司法保護事業やハンセン病療養所など、大小多数の個人や団体に多額の寄付をしていた。

 一九二八(昭和三)年、慈善団に遅れること十八年にしてライバル社大朝は「朝日新聞社会事業団」(現厚生文化事業団)を創設した。また現在では読売新聞(読売光と愛の事業団)やサンケイ新聞(サンケイ新聞大阪新聞厚生文化事業団)はもちろん、各新聞社が同様の組織を持っている。とはいえ大毎慈善団のパイオニアーとしての存在はひときわ光彩を放っており、それを実現させたのは本山の「慈善病」だったといえよう。しかしあえて付言すれば、慈善団の財源を支えたのは、彼のポケットマネーだったのではなく、事業の精神を理解した大毎読者の存在であった。慈善団に対する毎年の積み金は、大毎への広告掲載者および購読者の名義でなすとした本山の意図に深遠なものがあると改めて感じる。

編集委員 小笠原慶彰

[主な参考文献]
中村三徳編『大阪毎日新聞慈善團二十年史』大阪毎日新聞慈善團.1931.
『毎日新聞大阪社会事業五十年史』毎日新聞大阪社会事業団.1961.
毎日新聞130年史刊行委員会編『「毎日」の3世紀−新聞が見つめた激流130年』(上巻)毎日新聞社.2002.
故本山社長傳記編纂委員會編纂『松蔭本山彦一翁』大阪毎日新聞社・東京日日新聞社.1937.
津金澤聰廣『宝塚戦略−小林一三の生活文化論』講談社現代新書.1991.

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Volo(ウォロ)は大阪ボランティア協会が発行する 市民活動総合情報誌であり、オピニオン誌です。
『月刊ボランティア』創刊1966年。『Volo(ウォロ)』と誌名を変更して2003年新創刊。一貫して「市民が主体的に関わることの大切さ」を伝えてきました。分野・セクターを越えた社会的課題に市民がいかに関わるかを独自のアプローチでタイムリーに発信しています。