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市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2003年10月号(通巻389号) 目次に戻る

まちを歩けば −大阪の社会事業の史跡−

大阪府済生会中津病院と嘉門氏頌徳碑

 北区芝田二丁目、現在大改築もほぼ終了した大阪府済生会中津病院正面入り口前の庭に大きいのだが見過ごしてしまう碑がある。「嘉門氏頌徳碑」である。

 中津病院の現在の経営母体は、社会福祉法人「済生会」であるが、その前身である「」済生会とはどういう組織であったのか。済生会は、一九一一(明治四十四)年二月十一日(旧紀元節)、明治天皇の名による「済生勅語」(「医療を受けられずに困っている人たちの施薬救療の方法を考えよ」という趣旨の天皇の名による桂首相宛てのことば )を受けて、「施薬救療ニ関スル事業」を推進する団体として同年五月三十一日東京区裁判所に法人登記された。発足直後の総裁は伏見宮貞愛親王、会長は首相桂太郎、副会長は内相平田東助、役員には徳川家達、渋沢栄一をはじめとする元老・元勲、華族、実業界代表、高級官吏、府県知事など政官界や上流階層を代表する人物が連なっていた。「恩賜財団」が示す通り、当初の基金は勅語とともに「下賜」された「お手元金」百五十万円であったが、華族や高級官吏から集めた寄付を引き金にして、民間の有力者からもほぼ二千万円の寄付金を集めている。さらにまた一九一四(大正三)年の勅令第十八号「行政庁ヲシテ委嘱ニ依リ恩賜財団済生会ノ事業ヲ施行セシムルノ件」が出され、行政機構と表裏一体となった組織として定着していく。

 つまり、済生会そのものは、この頃に顕在化しつつあった都市貧困層の医療問題に対処すべく「官」と上流階層を代表する「民」が一体となって救療に取り組むために天皇の名の下に組織された団体だったのである。これは、ようやく認識されつつあった国家による生存権保障という概念と世界的潮流としての社会主義運動への日本的対処方法を模索した一つの結果であった。戦後になって先の勅令は、もちろん廃止され、一九五二(昭和二十七)年には社会福祉法人に改組された。しかし「」は法人名の固有名詞中に残されたままであり、果たして戦前の性格を乗り越えようとしたのだろうかと感じる。

 さて、済生会は「東京其他全国適当ノ地ニ漸次療病院ヲ創設」して、「全国ニ渉リ施薬救療ノ普及ヲ計ル」必要があった。東京では一九一二(大正元)年八月一日、深川および本所診療所での診療が開始され、同年度中に大阪、横浜、神戸、秋田、和歌山でも開設された。一九一五(大正四)年には東京に九診療科を持つ総合病院「芝病院」(現中央病院)が開設された。初代院長は評議員でもあった北里柴三郎である。
 大阪ではどうだったかというと、その翌年一九一六(大正五)年十月十日、現在の北区中崎町に大阪府病院(内科・外科・眼科、医員五名、七十床)が開設された。現中津病院の前身である。こちらの初代院長は石神亨である。石神は海軍軍医大尉時代に北里の助手として香港でペストの調査研究に従事したおり感染し、遺書まで認めたが九死に一生を得た。後、大阪で開業し、また私立伝染病研究所を開設するなどして、細菌学者としても知られていた。院長就任は北里の推薦によるものであったのだろうか。彼は一九一八(大正七)年二月で辞職し、田結宗誠が二代目院長に就任した(一九五二年まで、後述の中津移転はこの院長の下で行われた)。

 一九二〇(大正九)年には早くも、後に社会部となりさらに医療社会事業科へと変遷する「患者慰安会」が大阪府病院の中に設立された。また、一九二二(大正十一)年には寿屋(現サントリー)の鳥井信二郎が寄付した「鳥井病棟」が増設された。しかし、当時「大大阪」と呼ばれた都市状況を背景に発足したばかりの大阪府方面委員の活動によって貧困患者が新患として増えつづけ、病院は手狭になっていた。そのため府知事柴田善三郎が病院の改築に向けて奔走することとなった。柴田の斡旋で済生会の徳川会長、馬淵鋭太郎理事長らが関一大阪市長はじめ各界有力者と懇談し、改築のための発起人会が組織されたりもした。その後、多少の紆余曲折を経て、嘉門長蔵が病院改築費用の寄付を申し出ることとなり、財産の三分の一に当たったとされる百万円(1930(昭和5)年頃、ラーメン1杯10銭、豆腐1丁5銭、お汁粉1杯15銭。)という巨額の寄付の実現となった。嘉門は一九三一(昭和六)年に大阪府実業功労者として表彰されており、柴田とはそれを機縁として知り合ったていた。この嘉門とはいかなる人だったのであろうか。

 嘉門長蔵は、一八五二(嘉永五)年、大阪の阿波座生まれで木灰仲買業から身を起こし、浪華富商の一人に数えられるまでになった立志伝中の人であった。成功の契機は、日露戦直前に始めたメリヤス製造業であり、一九一二(明治四十五)年には大阪メリヤス紡績株式会社を始めた。第一次大戦ではロシアにメリヤス、シャツ、ズボンなどを納入し、後には日本物産株式会社を起こして南洋貿易をした。一九二七(昭和二)年には株式会社嘉門商店に改めるとともに隠居して代表社員となった。そして一九三三(昭和八)年に養嗣子に家業を引き継ぐに際して財産を整理し、百万円の寄付となったのである。

 さて、建設用地であるが、寄付額に見合う建物のためには中崎町の地では用地不足であり、別の用地が求められた。そこで、北野中学跡地が建設地とされた。ここには一九〇二(明治三五)年に堂島から移転し、堂島中学から校名変更した北野中学校(現北野高校)があったが、付近の都市化と学生の増加のため、一九三三(昭和八)年に十三の一角(現淀川区新北野)に移転していた。ちなみに「北野」の校名は、移転当時の周辺地名だが、「中津」は、旧中津川(現淀川)南岸にあった中津町(一九二五年大阪市編入)の名前に由来している。病院名が「済生会大阪府中津病院」と変更された一九三八(昭和十三)年には、付近を中津と呼ぶようになっていたのであろう。

 ところで、新病院は一九三五(昭和十)年十月八日、無事落成した。それに先立つこと三カ月、七月一日にすでに長蔵は他界していたが、その死に際しては勲三等瑞宝章が「下賜」された。落成式そのものは、第二代総裁閑院宮載仁、徳川会長などの済生会重役、知事、前知事など政官界有力者とともに、長蔵夫人コト、嗣子国松も招かれ盛大に挙行された。落成式の前日には嘉門夫妻の功を記念して表玄関前庭に建立された夫妻の銅像が除幕された。この銅像は戦争のための金属類供出にともない台石のみ残して撤去されたが、一九五〇(昭和二十五)年に残された台石に頌徳碑が建立された。

 一代で築き上げた身代の大半を寄付し、引き換えに栄誉と称賛を手にした長蔵は、新しく出発し、発展を遂げた中津病院をどう見ていただろうか。当時の「新」病院も建設から半世紀以上が経ち、老朽化にともない大改築された。冒頭の頌徳碑以外にもモニュメントとして残された病院玄関の二階ホールには、夫妻が使用したお櫃がその辛苦を偲ばせるものとしてガラスケースに保管、展示されている。これらを「展示」する関係者の姿勢は、官民一体となった「」済生会による「古き良き伝統」の表明ということだろうか。

編集委員 小笠原慶彰

[主な参考文献]
池田敬正「済生会の成立」(後藤靖編『近代日本社会と思想』吉川弘文館.1992.)
『恩賜財團濟生會大阪府中津病院二十五年史』1941.『済生会七十年史』1982.
『大將とお家はん−嘉門翁夫妻回顧録』大阪府済生会中津病院.1960.

注)=恩賜財団、=恩賜財團

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Volo(ウォロ)は大阪ボランティア協会が発行する 市民活動総合情報誌であり、オピニオン誌です。
『月刊ボランティア』創刊1966年。『Volo(ウォロ)』と誌名を変更して2003年新創刊。一貫して「市民が主体的に関わることの大切さ」を伝えてきました。分野・セクターを越えた社会的課題に市民がいかに関わるかを独自のアプローチでタイムリーに発信しています。