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オピニオン「V時評」2016年度

『ウォロ』に掲載している「V時評」は、時代の一歩先を読み、新しい課題の発見や提言に努めるオピニオンです。

2016年4・5月号から2017年2・3月号
2015年4・5月号から2016年2・3月号
2014年4・5月号から2015年2・3月号
2014年3月号までの「V時評」はこちらから

V時評T【2017年2・3月号:掲載】
NGO規制が示唆する世界

編集委員 増田宏幸

 近年、NGOの活動を規制・排除しようという動きが目立つ。ロシアでは2015年5月、国内で活動する国際的なNGOを規制する法律にプーチン大統領が署名した。中国でも昨年、「外国非政府組織国内活動管理法」が成立したほか、人権派弁護士や活動家の拘束が相次いでいる。中東からの難民受け入れを拒むハンガリーのオルバン政権も、メディア統制と並行しながら、NGO活動について「欧米の意向と資金援助を受けて政府批判をしている」と規制を強めつつあるという。背景として共通するのは、自由主義的な価値観が広がることへの警戒心だ。
 これらは独裁的な政権の国々に起きている特異な現象であって、日本から見れば対岸の火事なのだろうか。いや、そうとも言い切れない、と思うのは、ドナルド・トランプ氏が米大統領に就任したからだ。既存メディアや不法移民などを敵≠ニして攻撃するその政治手法は、「市民の連帯を阻む」という点でNGO規制と同工異曲ではないだろうか。

 トランプ氏は日本時間の1月21日未明、正式に大統領の座に就いた。本稿は就任式の前日に書き起こしたのだが、「トランプ大統領」という言葉をいまだに消化できないでいる。目の当たりにしてなお、これは現実なのだろうか、この出来事は何をもたらすのだろうか、と考えてしまうのだ。
 今回の米大統領選を巡っては、「ラストベルト(さび付いた工業地帯)」「アメリカ第一」「反エスタブリッシュメント(既存の支配層)」「保護主義」などいくつかの象徴的なフレーズがあった。「フェイク(偽)ニュース」と「ポスト・トゥルース(真実)」の2語もそうだ。ネットを通じて偽ニュースが流布され、事実や根拠とは無関係に「正しい」と信じる人がいる。16年を象徴する言葉としてポスト・トゥルースを選んだ英オックスフォード大学出版局のキャスパー・グラスウォール氏は「人々の情報源としてのソーシャルメディアの台頭と、エスタブリッシュメントが発信する事実への不信感がある」と分析した――という(1月16日付毎日新聞朝刊オピニオン面)。つまりこの2語も、同じ背景から生まれた他の象徴的な言葉と相互に関連し合っているのである。
 引用した同じ記事には、「トランプ氏の発言(選挙後のものを含む)の69%が『ほぼ間違い』から『大うそ』に分類される」という、米メディアのファクト(事実)チェックサイトの数字も出ている。トランプ氏は自らフェイク情報を発信しているにもかかわらず、批判するメディアを逆に「フェイク」呼ばわりし、しかもそれを支持し、信ずる人がいるという構図なのである。

 もちろん「事実」は一つでも、それをどう捉えるのか、視点の違いによって、得られる意味(その人にとっての真実、正しさ)も変わってくる。しかし、元になる事実自体が虚構であれば話は違う。見たい現実、見たい未来を求める人間の習性を利用した、悪質な扇動でしかない。事実に基づく情報を共有できなければ、市民的な連帯は生まれようがない。人々はなるべくバラバラに孤立し、弱い存在のままでいてくれるのが望ましい――。独裁政権とメディア・情報統制が切っても切れない関係にあるのは、このためだ。フェイク情報によって「事実を駆逐する」のがトランプ流とするなら、情報を遮断することで「事実を覆い隠す」のが習近平流とでもいえようか。トランプ大統領がどこまで意図しているかは分からないが、手法の外形的特徴からは、独裁的国家と通じる指向性が読み取れるように思う。
 NGOやNPOなど市民活動が作り出す「場」の存在も、連帯には欠かせない。情報のコントロールとNGO規制は独裁の両輪だ。米国は自由と民主主義の本場ではあるが、「トランプ大統領」によって、連帯より分断が目立っているように見える。ヨーロッパの極右勢力の伸張も言われている。市民の自由を狭める動きに、細心の注意を払いたい。

V時評U【2017年2・3月号:掲載】
制定後が正念場 休眠預金活用法

編集委員 早瀬昇

 昨年12月2日、参議院で「休眠預金活用法」(民間公益活動を促進するための休眠預金等に係る資金の活用に関する法律。以下、活用法)が賛成多数で成立した。今後、内閣府に設置される審議会での検討や金融機関での準備を経て、19年秋頃から休眠預金の活用が始まることになる。
 この「休眠預金」とは、預金の出し入れ等が10年以上なかった預金のこと。金融庁の調査では、休眠化後の払い戻しを経ても、毎年、600億円以上発生。これらは金融機関の利益として処理されてきた。益金処理後も預金者はいつでも払い戻しできるが、極めて多額の休眠預金が発生しているのである。この預金を社会課題の解決に取り組む民間公益活動で活用し、国民の利益増進につなげようと制定されたのが、活用法だ。

 具体的には、活用法の施行日(来年1月1日の予定)以降に休眠状態が9年を超える預金の預金者に休眠預金化を予告する通知をし、1年後まで払い戻しなどのなかった預金が金融機関から預金保険機構に移管される。預金額が1万円未満か宛て先不明の場合は通知されない予定だが、機構に移管された後も預金者はいつでも引き出せる点はこれまでと変わらない。
 この預金を、「指定活用団体」(公募。全国で1団体)に交付し、指定活用団体は全国各地の「資金分配団体」(公募)に助成か貸し付けをする。資金分配団体は公募で選考した「民間公益活動を行う団体」に助成や貸し付け、出資を行ってその活動を活性化し、公益団体は活動を進め、その成果を報告する。
 なお、資金の活用分野は、@子ども・若者の支援、A日常生活や社会生活に困難を有する者の支援、B社会的に困難な状況に直面する地域の支援、C以上に準ずるものとして内閣府令で定める活動――とされる。また、社会課題解決のための「革新的な手法の開発を促進」し「成果に係る目標に着目」する形で活用することとされている。
 制度の詳細は今春にも内閣府が設置する審議会で詰められる。国会の審議では、「なぜ3分野だけなのか」「『革新的手法』とあるが、従来からの地道な努力で行っている活動は支援しないのか」などの質問があった。これに対し提案議員から「この三つのカテゴリーでも、従前の公益活動はかなりの分野が含まれる」「運用方法は、審議会での意見を取り入れ、本当に役立つ運用をしたい」と回答している。

 数年後には、巨額の資金が民間公益活動を通じた社会課題の解決に活用されることになる。ただし、この資金活用の前に、まず休眠預金の発生抑制を徹底しなければならない。休眠預金は、預金者が望んで生まれるわけではない。忘れられたり、払い戻しが面倒であったりという事情で発生してしまうものだ。こうした事情の預金が増えることで民間公益活動を活性化できるこの仕組みは、ギャンブルで負けた人々から得る利益で経済成長を期待するカジノ推進にも似た問題を内在しかねない。それだけに、この資金を活用する団体自身が率先して休眠預金削減のための啓発活動などを進めなければならない。
 また、休眠預金は、資金の出し手である預金者が活用先を選べない資金でもある。そこで活用法では、資金を漫然と支出するのではなく、活動の「成果」を重視することが明記されている。休眠預金を受ける場合、着実に「成果」を上げる活動体制が求められるわけだ。この成果志向に対応できる体制を団体が整えていく必要がある。
 一方、具体策を詰める審議会の透明性向上も重要だ。「新しい公共円卓会議」はインターネットで同時中継されていたが、政権交代後の「共助社会づくり懇談会」では議事録公開に変わってしまった。新たな審議会は徹底した情報公開で、国民の信頼を得ていかねばならない。
 休眠預金活用法は成立したものの、「これからが正念場」というほど多くの検討課題がある。市民活動を進める私たちは、当事者として、審議会での検討過程を注視する必要があるだろう。

V時評T【2016年12月・17年1月号:掲載】
「基準」に翻弄される市民を救うには?

編集委員 神野武美

 高齢ボランティアによる地域おこし活動のリーダーである知人(73)が、7月に突如約40日間入院した。彼は18年前、全国で患者2000人という手足が痺れる神経系の難病に罹り、以来、血液製剤の点滴を週1回受けてきた。点滴1回25万円もする医療費を抑制するためか、健康保険の基準は「1カ月治療した後1カ月空けなければ保険は適用できない」ので、知人は奈良県内の一般病院と大阪の大病院を月ごとに交互に通っていた。
 ところが、保険審査機関から「府県を替えてもダメ」という通告があり、やむなく点滴を中断。すると2週間後には症状が悪化。別の治療法を試みても効果はなく、一時は両手両足が完全にマヒした。
 幸い、息子さんが「患者の会」のホームページから「毎週点滴している患者もいる」という「例外情報」を発見して、大学病院の専門医に紹介状を書いてもらうことができ、再び点滴が毎週行えるようになった。今では自転車に乗れるほど快復している。

 話は変わるが、9月初めに東日本大震災の被災地、宮城県石巻市で住宅問題の勉強会があった。そこで知ったのは避難所に行かず、被災した自宅にとどまった「在宅被災者」の実情である。こうした住民は、避難者ではないという理由から、日本赤十字社から贈られる冷蔵庫、テレビなど家電6点セットがもらえない。応急修理制度で支給された52万円を使うと仮設住宅入居の権利を失う。住宅再建の加算支援金を使うと復興公営住宅への入居が難しくなる「基準」があるという。その結果、建物が壊れて隙間風が入り、風呂も無く、カビだらけの住居に我慢して住んでいる人がいるそうである。今、仙台弁護士会が2015年11月から始めた、200軒を超す在宅被災者宅の訪問調査が進んでいる最中だ。
 「まるっと西日本」(東日本大震災県外避難者西日本連絡会)代表世話人の古部真由美さんは「被災者は、仮設住宅、公営住宅の抽選、自宅を再建するための今まで聞いた事もない災害特有の法律や国が行う各種制度を勉強しないと前に進めない」と話す。つまり、自己努力で情報を得た人や、サポートしてくれる人や団体があれば救済されるが、そうした情報を知る機会がない人は役所の窓口で「あなたの場合は基準に合わない」と追い返されるのがオチなのである。

 「福祉の情報格差への疑問から研究者になった」という中田雅美・札幌学院大准教授(地域福祉)は「日本の福祉制度は、課題が生じる度に機能を追加するやり方だったため複雑化し、『多様化』というより『混在』という状態に陥り、それらを調整する部局もない。デンマークでは、サポートが必要な人には、自治体の担当者1人が寄り添い、福祉や医療、住宅などの多様なサービスにつなげている」と指摘する。
 厚生労働省が取り組む「地域包括ケア」は、デンマークのような「寄り添い型」を志向している。一つの支援困難ケースの課題解決のために様々な専門職が集まって、「地域ケア会議」を開くことを想定している。ただ、これが機能するには、処遇の過程を記録し、情報公開や「本人情報開示」による透明性と情報の共有が不可欠である。
 それらを欠くと、重要な集団的自衛権行使容認の閣議決定(2014年7月)に関する憲法上の検討過程を記録しなかった内閣法制局や、豊洲市場問題で奇々怪々な決定過程が明らかになった東京都のようになり、制度自体が形骸化する。むしろ、記録がない場合や、市民や国民が理解可能な情報を公開しない場合に、行政上の決定を無効にするといった厳格な「基準」こそ設けるべきである。

V時評U【2016年12月・17年1月号:掲載】
あらゆる場に「参加の機会・窓口」を

編集委員 早瀬昇

 エンドロールを観ながら、不覚にも涙を抑えられなかった。映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督)の最後、この映画を世に出すために寄付をした人々の名前が延々と紹介される場面だ。実に多くの人々の支えで、この素晴らしい映画が生まれたことに感激した。
 広島と呉で暮らした一人の女性の昭和8年から21年までの日々を、アニメーションで丁寧に描いたこの映画は、実に多くの人々の参加によって生まれた。原爆で壊滅した街を再現するため、当時を知る人々が薄れかけていた記憶を呼び覚まし、当時の街並みや行きかう人々が現代によみがえった。
 この映画の製作に必要な出資企業を募るため、パイロットフィルム(試験的な短い映像)の製作費要として2000万円を目標にクラウドファンディングが実施されたのが昨年3月。この目標はわずか8日あまりで達成し、最終的に全国の3374人から3912万円を超える寄付が寄せられた。
 この反響の大きさに映画館主が反応。出資企業も集まり始め、昨年6月に映画制作が正式に決定。さらに映画製作に関わった人々が「『この世界の片隅に』を支援する呉・広島の会」を設立し、情報交換やPRを進めている。

 魅力的な夢の実現に関われる「参加の機会」を提供すれば、人々の意欲的で創造的な取り組みが広がる。そう確信できる出来事だ。そしてこうした動きは、「動員」といった自発性を無視する用語が飛び交いがちだったPTAでも起こっている。
 今年2月、小学館から『PTA、やらなきゃダメですか?』という新書が発刊された。新聞記者でもある著者・山本浩資氏が東京都大田区立嶺町小学校のPTA会長に選ばれたことに始まるPTA改革のレポート。ドラッカーの『マネジメント』も参考にして、PTAをPTO(保護者と先生による楽しむ学校応援団)に改組し、行事を進める人を「この指とまれ」方式で募るなど多彩な改革が進んでいる。その改革の核をなすのは、役員会をボランティアセンターに変えたことだ。
 役員会だと役員になった人が活動をすべて担いがちで、事実、そうしたPTAが一般的だ。そこで役員になると私生活が犠牲になり、勢い役員のなり手がいなくなってしまう。しかし、元来、多くの保護者は子どもたちの健やかな成長を願っているし、そのために「できること」はしたいと思っている。そこで、役員会をボランティアセンターに改め、役員だけが抱えていた役割を広く保護者などに開放。さらにこの指とまれ方式で新たな活動を創造していくことにしたのだ。

 このPTA改革の実践は多様な組織に応用できるだろう。既に大学や一部の企業にもボランティアセンター(ボラセン)が開設されている。さらに、自治会ボラセン、お寺ボラセン、地域包括支援センターボラセン…など、「参加の機会」を提供するプロジェクト、「参加の窓口」を備えた組織を増やしていくことで、組織に活力が生まれ、窮屈な現状を打開できるはずだ。
 内閣府が今年1、2月に実施した「社会意識に関する世論調査」で、「日頃、社会の一員として、何か社会のために役立ちたい」と答えた人の割合は65%。人々の間に潜在する参加の意欲に応える環境を様々な場で作っていくことが必要だろう。

V時評T【2016年10・11月号:掲載】
社会福祉法人制度改革
 ボランティア・NPO関係者にとっての意味

 編集委員 筒井 のり子

 社会福祉法人をめぐる大きな改革が進行中である。2016年3月末に社会福祉法の改正法案が成立し、17年4月1日からの施行(一部は16年4月1日から)の運びとなった。
 法改正の大きなポイントは、社会福祉法人制度の見直しである。その内容は、@経営組織のガバナンスの強化、A事業運営の透明性の向上、B財務規律の強化、C地域における公益的な取組を実施する責務、D行政の関与の在り方、の5点である。
 社会福祉法人の制度改革が議論されるようになった背景には、大きく三つの要因がある。まず、一部の社会福祉法人の不祥事が大きく問題になったことである。たとえば「東京あそか会が役員経営のファミリー企業へ8億円流用」という事件を記憶している人も多いだろう。第二に、過剰な内部留保について問題視されたことである。ただし、これについてはその算出方法が財務省、厚生労働省、業界団体で異なっていたため混乱を招いた側面もある。第三に他の経営主体(営利法人やNPO法人)とのイコールフッティング(足並みをそろえる)の問題である。社会福祉法人は法人税や消費税、事業税等が非課税優遇されているが、内閣府の規制改革会議でも「介護・保育分野においては経営主体のイコールフッティングを確立すべき」という提言もなされている。社会福祉法人が非課税優遇されている正当性が改めて問われるようになったわけである。

* * *
 そもそも社会福祉法人の誕生は、51年の社会福祉事業法(現在の「社会福祉法」)の制定・施行に遡る。当時は、敗戦による海外からの引揚者や戦災孤児、身体障害者、失業者、生活困窮者の激増という問題に直面しており、行政だけでなく民間資源の活用が必要とされた。そこで憲法89条で禁止された民間社会福祉事業への公的助成等が、社会福祉事業法で規定された社会福祉法人を「公の支配に属する」組織と解釈することで道が開かれた。以後、50年間、措置受託を中心に社会福祉事業の主たる担い手として福祉サービスの安定供給に寄与してきた。しかし、その反面、民間組織としてのボランタリーな姿勢が弱くなり、「新たな福祉課題に対して、社会福祉法人の動きが消極的」との批判もなされるようになっていた。
 今回の改正では、ガバナンスの強化として、すべての法人に「評議員会」の設置が義務づけられた(それまでは任意)。社会福祉法人には税金(国民のお金)が使われているので、国民の一部に評議員になってもらい、その使い方を評価することで理事や理事長への牽制機能を強めようという意図である。ちなみに某自治体では、市内52法人のうち27法人が新たに評議員会を設置する必要があるという。加えて委員の選び直しが必要な法人もあるため、100名以上の評議員候補者が必要となる。その人材をどう確保するのか?
 また、すべての法人に「地域における公益的な取組」が義務づけられることとなった。生活困窮者などの福祉ニーズに対応することで存在感を示し、営利法人等との差異を図ろうとするものである。「公益的な活動」として、様々な展開が考えられるが、これまで地域との関わりが薄かった法人は大変戸惑っている状態である。

* * *
 このように、今回の社会福祉法人改革は、社会福祉法人だけで自己完結できるものではない。福祉課題や地域課題に取り組んできたボランティアやNPO関係者が、「評議員」として経営に参画することは、非常に大きな意味を持つ。また、社会福祉法人のスタッフと連携・協働することで、より地域ニーズに合致した「公益的な活動」を地域に生み出すことができるだろう。今回の改革を地域の福祉問題解決にどのように活かせるのか、社会福祉法人関係者だけでなく、ボランティア・NPO関係者も問われているように思われる。

V時評U【2016年10・11月号:掲載】
地方議会を今こそ「市民活動」に

 編集委員 増田 宏幸 (ますだ ひろゆき)

 富山市議会に端を発した政務活動費(政活費)の不正使用は、他の自治体でも相次いで発覚し、問題の根深さを示している。思い出すのは1990年前後の4年間、駆け出しの新聞記者として奈良県で取材していた時のことだ。
 当時、奈良県では地方議員の不祥事が相次いだ。複数の市議会で、議長選挙に勝つため同僚議員に賄賂を贈る事件が発覚。うち1件では、対立議員を陥れようと暴力団を使って交通事故を起こす悪質さだった。他にも外国人女性に売春をさせる目的で旅館を経営したり、市職員に暴力を振るったり、拳銃を所持して銃刀法違反容疑で逮捕されたり……などなど。いま記憶を呼び起こしてもうんざりするほどだ。
 昔のことでもあり、特殊かつ極端な事例と思われるかもしれない。だが本質はどうだろう。政活費問題で改めて浮かんだ「なぜこのような議員が当選するのか」「地方議員とは、本当に必要な存在なのか」という疑問は共通している。綾小路きみまろではないが「あれから30年」、相も変らず私利私欲丸出しの議員が後を絶たないのはどうした訳だろう。もはや、こうした有害議員を生み出すシステムや、社会的背景の方にこそ根本的な問題がある、と考えざるを得ないのではないだろうか。

* * *
 やや古いが、2007年度の第29次地方制度調査会で示された総務省の「諸外国における地方自治体の議会制度について」という資料がある。イギリス、ドイツ、スウェーデン、イタリア、フランス、韓国の例が挙げられ、例えばボランタリーな議会のあり方で知られるスウェーデンでは、広域自治体「ランスティング」と基礎自治体「コミューン」(注)のいずれも、議員報酬は「原則として無給で、専業職ではないため多くの地方議員が兼業」だ。従ってコミューンの場合、議会会期も「7、8月を除いて毎月一度、年間10〜12回程度で、時間帯は通常夕刻から始まり2〜5時間程度」となっている。
 ドイツでも議会は夕刻から開催され、議員報酬は「通常、少額の報酬と出席手当が支給される」。イギリスは手当が支給されるが、議長相当職に対する加算を含めても日本の議員歳費に比べかなり低い。イタリアの市町村にあたる「コムーネ」の議会も出席に応じた日当の支給で、会期は8月を除く毎月曜日の午後6時〜8時。フランスでも議員報酬は原則として無償で、議会が認める職務を執行する場合に一定の条件下、必要経費の実費弁償があるという。

* * *
 日本の地方自治法では、議会は「設置する」ものとされており、現状では置くしかない。だが議員定数や議員報酬は条例次第で、政活費も同様だ。議員の選び方・あり方は、変えられるのではないだろうか。
 折しも東京都では小池知事が、20年東京五輪の開催費が招致時の予算見込み7300億円余から2兆円超、3兆円と増えたことについて、見直しを提起している。桁は違うが、この増額ぶりは政活費不正をした地方議員と同根のように見える。すなわち、公金の使用前は「(どう扱ってもいい)自分の金」と考える一方、使いっぷりは「(糸目をつけない)他人の金」(自分の金なら節約するだろうに……)。
 どんな形であれ、地方議員に必要なのは一般常識と、何より地域をより良くしようという使命感、当たり前の倫理観だろう。議案や予算の知識が足りなければ専門家を巻き込めばいい。それは、考えてみれば市民活動の現場と同じではないか。地域や社会に関心を持ち、足らざるは支援を求め、より良くしようと努める。どこかの地域で市民が堪忍袋の緒を切り、議員・議会の「夜間(夕刻)開催、無報酬」の先鞭をつけないだろうか。一つ実現すれば、一気に広がる気がする。

(注)資料には明示されていないが、議員定数の規定を見る限りランスティングは人口10万前後〜30万人、コミューンは数万人以下と思われる。

V時評T【2016年8・9月号:掲載】
里山資本主義と里海資本論に寄せて

 大阪ボランティア協会 理事長 牧里 毎治

 雲行きが怪しい日本経済のくすんだ未来をクリアに明るくしてくれる本が出た。ひとつは藻谷浩介さんとNHK広島取材班が出版した『里山資本主義』(角川書店)、もう一つは姉妹編ともういうべき井上恭介さんとNHK里海取材班が出した『里海資本論』(角川書店)である。『里山資本主義』は初版が2013年なのでやや古くなったけれども、『里海資本論』は2015年発行なので、まだ新しいとして取り上げてもいいだろう。
 ここにいう里山資本主義と里海資本論は、造語ではあるが、日本経済再生や地域活性化を考え直す機会を与えてくれる。マネタリズムの典型ともいえるマネー資本主義に対抗して考え出された言葉といっていいかもしれない。
 かつて日本人が丁寧に手を入れてきた山林や農地、それから海浜などの自然環境を見直して、休耕田や休眠資源そして海洋資源を再利用し、地産地消の地域循環型経済を取り戻そうという発想が里山資本主義と里海資本論の内容である。投資や貯蓄でマネー経済を動かすという発想ではなくて、人々が暮らす自然環境から得られる自然の恵みをもっと大事にした、環境にも人間にも優しい地域社会を取り戻そうという試みでもある。

* * *

 『里海資本論』は『里山資本主義』の続編だが、瀬戸内海を舞台に「アマモの森」と「牡蠣の筏」を再生させた人びとの取り組みの取材を通じて、里海という自然に人間が手を入れ、地域循環型経済を再生させるという物語である。
 お金を出せばなんでも簡単に手に入れることができるようになった物あまりの日本社会、いつから人びとは使い捨てに慣れ、物を大事にしなくなったのだろう。焼却処分しないと経済的にも物理的にも流通が滞る消費経済大国、使い捨ての商品が相変わらず再生産され続けている現代の日本。豊かな社会にするには経済の規模を大きくして金や物や人の流通を多くする。他方、売れなくなった大量の食材が廃棄され、大量に排出されるゴミの回収と焼却、そして大気汚染にオゾン破壊。地球規模で破壊されていく自然環境をなんとかしたいと悩み、環境問題に取り組んでいるボランティアは多い。

* * *

 里山資本主義と里海資本論は、いまある地域資源の価値を見出して、地域社会に眠っている「資源」を地域住民の「資産」に変換しているのではないだろうか。マネー資本主義によってずたずたに切り込まれ、破壊された、地域社会の古き良き「おすそ分け」や「ふるまい」「おせったい」など助け合いや支え合いを復活させようとする運動にもみえる。古き良き慣習や習慣は、そのままでは持続させることはできないけれども、現代風に少し手を加えて、活用すれば、これまで価値の無いものとされ、置き忘れてきたものに光や輝きを取り戻すことができるという教訓を示している。まさしく地域資源に敬意を払い、それに手入れをし続けてきた住民の「もったいない」思想ではないだろうか?
 いまある地域資源を使って、それも忘れられ見捨てられた地域資源に手を加えて再生する。環境問題でよく交わされる3R、Reduce(減量)、Reuse(再利用)、Recycle(再資源化)に、Respect(尊敬)を加えて、「もったいない」の言葉を提唱したのは元ナイロビ大学教授のワンガリ・マータイさんだが、リフォーム(Reform)によるリニューアル(Renewal)を加えても良い。ボランティアの得意とするところが、貨幣経済では値段をつけられないことに値打ちを見出す能力にあるとすれば、市場経済が見捨てていった海や山や海辺を取り戻す取り組みこそ先行きの読めない日本経済のもうひとつの見取り図を示してくれている。

V時評U【2016年8・9月号:掲載】
「憎悪の出会い」とならないために ―障害者施設入所者殺傷事件に思う

 編集委員 早瀬 昇(はやせ のぼる)

 実におぞましい事件が起きてしまった。7月26日、神奈川県にある障害者施設、津久井やまゆり園で起きた殺傷事件だ。戦後最多の犠牲者を出した殺人事件を起こしたのは、入所者をケアする立場にあった人物。抵抗できない障害者を次々に襲った残忍さは虐殺と呼ぶべきものだし、達成感を得たかのような容疑者の表情に言葉を失った読者も多いだろう。
 容疑者が衆院議長に宛てた手紙には「障害者は不幸を作ることしかできません」「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます」などと書かれていた。優生思想(注1)と呼ばれる極端な発想だが、彼はそれを実行に移してしまった。
 この優生思想については既に多くの論評がなされているが、今回の事件は市民活動を進める上でも重い課題を突き付けていると思う。それは、市民活動の意味の一つとされる「当事者意識の向上」に関わる課題だ。

* * *
 社会の課題を体現する「当事者」という言葉の対語は「第三者」。つまり、「あの人たちは大変だね」などと同情しつつも、所詮、他人事としてしまう立場だ。
 社会で起こる問題を他人事としがちな中、市民活動を通じて当事者と出会ったり問題解決に関わる経験を重ねることで、私たちはその社会問題を自分にも関係する事、いわば「自分事」と受け止め、当事者意識を高めていく。ボランティア活動などの市民活動の重要な意味の一つはここにある。
 しかし今回の事件は、ボランティア以上に、より深く当事者の生活に関わっていた元施設職員が凶行を起こした。当事者に関わる中で理解を深めるはずが、逆に殺すことに正義があるとでもいうような屈折した発想を得てしまった。なぜ、こんなことが起こってしまったのだろう。  原因解明には今後の捜査や検証が必要だが、その背景を考える上で踏まえねばならないことの一つは高齢者や障害者に対する虐待の実態だろう。
 厚生労働省によると13年度に虐待と判断された事例で、ケアする人が加害者であったのは、高齢者で家族等の養護者1万5731件、施設従事者221件、障害者で家族等の養護者1764件、施設従事者263件であった。虐待の多くはケアする人が加害者となって起きている(注2)。

* * *
 容疑者が「ヒトラーの思想が降りてきた」と語り優生思想の感化を認めている今回の殺傷事件と、日々の介護疲れが起因となりがちな多くの虐待事例には、質的な違いがある。ただし、容疑者が介護の現場での疲れや消耗感の中で、その状況を【打開する理屈】として優生思想的な発想法を見出したとしたら、厳しい介護の現実に事件の遠因があるとも考えられる。
 現場に出向き当事者と出会えば、課題を理解し、自分事として問題解決に努力する姿勢に変わる……という構図は実は容易には成立しない。実際、福祉教育のための体験活動が苦役の記憶になってしまう場合もあるし、教員試験受験者に課せられる介護等体験なども十分な配慮がなければ逆効果となりかねない。
 さらにケアの営みが日常化する場合、過酷な現実に迫られ、その重みに耐えられない状況では、当事者への理解の芽は萎え憎悪に転化する場合さえあることを、虐待事例の多さが示している。
 ケアする人々が徒労感や被害者意識に陥らないためには、孤軍奮闘状態を防ぐことも必要だ。その意味で、現場職員と協働するボランティアの輪を広げるといった地道な取り組みも、今回のような事件を再発させないための土台の一つになると考える。


(注1)障害の有無や人種などを基準に人の優劣を定め、「優秀」な者にのみに存在価値を認め、そうではない者を殺害したり人工的に生まれないように操作したりすることを肯定する思想
(注2)平成25年度「高齢者虐待対応状況調査」「障害者虐待対応状況調査」から

V時評T【2016年6・7月号:掲載】
さあ、「問答」を始めよう 〜参院選を前に

 編集委員  増田 宏幸(ますだ ひろゆき)

 本誌2、3月号の特集テーマは「市民活動のコトバを考える」だった。声や文字、手話といった伝達の手段を問わず、言葉が人間のコミュニケーションの根幹であることは当たり前の事実だ。言葉が人の心を動かし、行動を促し、ひいては歴史をも変える。一方で、言葉には多面性がある。発した人の意図と、受け取った人の理解が違えば、意思疎通どころか摩擦や対立を生みかねない。その力と危うさを市民活動の中で再考し、言葉を【どう使うか、使ってきたか】について見つめ直してもらえれば、というのが趣旨だった。

      * * *
 コミュニケーション、意思疎通は「問答」なしには成り立たないだろう。ところが市民活動の世界から目を転じると、近ごろ「問答無用」としか言いようのない場面が目につく。それもただ問答を拒絶するのではなく、「多弁・雄弁」な姿で。
 例えば国会質疑がある。野党からの質問に対し、安倍首相が言葉数多く答える。だがその中身はどうだろう。質問への回答というより、自説を主張することの方が多くはないだろうか。質問者が「そんなことは聞いていない。この点について端的に答えてほしい」と言っても、再び同じような答弁が繰り返される。
 分かりやすい場面を、作家の柳田邦男さんが毎日新聞のコラム(5月28日朝刊)で書いている。5月16日の衆院予算委員会、保育士の待遇改善をめぐる民進党・山尾政調会長と安倍首相とのやりとり。
――「山尾氏はいきなり『男尊女卑政権』と決めつけたのではない。山尾氏は、保育士の平均給与が全産業労働者に比べ11万円も低いという格差を問題にしているのに、政府が女性労働者の平均給与との差を物差しにするのはおかしい、政府が(1)保育を「女性の仕事」とみている(2)男女の賃金格差を前提としている――の2点で問題だと指摘して、首相に発言撤回を求めたのだ」
 「しかし首相は正面から答えず『一気に全部やるのは簡単でない。民主党政権時代にできなかったじゃないか』と議論の焦点をずらし、感情的に文脈を飛躍させて、自ら『レッテル貼り』をしたのだ」
 「山尾氏はそれまで論理的に追い込む議論をしてはいるが、誹謗中傷する言葉は使っていない。山尾氏は再度、女性の平均賃金を物差しにすることを適切と考える理由をただし、答えないなら『男尊女卑政権だと言われますよ』と、初めて決めつけ語を使った」
 「首相はさらに感情的になり『まさに今のがですね、今のが山尾さん、誹謗中傷なんですよ。全く議論をすり替えています』と声を張り上げた」――
 柳田さんは更に、こんな場面にも言及している。「山尾氏が首相に、野党が提出した保育士給与5万円引き上げ法案が国会で審議されずたなざらしにされていることへの見解をただすと、首相は法案の内容には言及せず『(山尾氏は)議会の運営ということについて、少し勉強していただきたい』と、見下すような発言をした。昨年、質問者に『早く質問しろよ』とやじった情景が重なる」と。

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 痛いところを突かれると、人は防御反応で攻撃的になると言う。男に多いように感じるが、安倍首相の態度も「攻撃は最大の防御」という戦術的なものではなく、とっさに自らを守る生理反応のように感じる。
 民主主義の眼目は、異論を受け入れ、血肉とすることだろう。誰かの言うことが、あるいは何らかの行動が、100%正しいということは恐らくない(逆に100%の誤りも)。だから複眼的な視点、異論が大切になる。国会質疑で安倍首相は極めて多弁であり、質問者と「応酬」しているように見える。だが論点はかみ合っておらず、それを故意にやっているとすれば「問答」ではない。形を変えた「問答無用」だ。東京都の舛添知事が無表情に繰り返した「第三者の厳しい調査を待ちたい」も問答無用の一変形だし、批判を歯牙にもかけないドナルド・トランプ氏の態度も同様だろう。
 自説が全てという人にとって、異なった意見を聴き、受け入れることは時間の無駄であり、面倒で非効率なことなのかもしれない。だが「個」を排除し、異論を圧殺する全体主義が崩壊していったことを、私たちは知っている。異論や異分子の存在が社会の健全性の指標であり、回り道に見えても、より民主的な社会を目指す本道なのだ。これは政府や安倍首相に限らず、政府に反対する人についても同じことが言える。「自説以外認めない」のは思考停止であり、立場にかかわらず社会を分断し、停滞させる行為だろう。

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 異論の排除は世界的な趨勢かもしれない。日本の周辺を含め独裁的な各国で見られるが、最近ではトルコで著しく、軍政が長引くタイでも指摘されている。EU諸国での極右・民族主義的政治勢力の伸張もあり、第二次世界大戦後の世界は曲がり角にさしかかっているように思える。その根っこにはイスラム圏の混乱だけでなく、貧富の格差拡大など、それぞれの社会が抱える問題がある。考えてみれば米大統領選でトランプ氏や民主党のバーニー・サンダース氏に支持が集まるのも、既存の政治とは「問答できない=政策にアクセスする道がない」と考える層が、いかに多いかを示していると言えそうだ。トランプ氏の言動の当否はともかく、米国の有権者は「トランプ氏となら問答できる」と考え(あるいは誤解し?)、自らの選択と行動で意志を伝え、結果として既存の政治を大いに揺さぶっている。サンダース氏の主張に対する若者の共感と期待はより理解しやすく、それだけに無視できない力となっている。翻って、参院選が近づく日本はどうか。
 衆院との同日選がなくなって関心が高いとは言えず、最初から「どうせ何も変わらない」「投票したいと思う政党(政治勢力)がない」という諦めを持ってしまっている人もいるようだ。しかし消費税増税が先送りされ、福祉の財源や財政再建の先行きは見えない。米国同様、貧困・格差の問題も大きい。選挙結果によっては憲法改正(改定)論議が本格化する可能性がある。何より、私たちは日本の政治と「問答」できているのだろうか。異論を表明する自由、異物でいる自由は、狭まってはいないだろうか。
 今年は1936年の二・二六事件から80年。その4年前には犬養毅首相らが暗殺された5・15事件が起きた。乱入した青年将校らに「話せばわかる」と言った犬養首相に対し、青年将校は「問答無用、撃て」と発砲したとされる。その後の日本がたどった道を見れば、この「問答無用」は実に象徴的な言葉に思われる。繰り返しになるが、異論を邪魔者扱いせず、手間ひまかけて意見をすりあわせ、より良い合意を形成するのが民主主義だとすれば、私たちも安易に「決められる政治」に寄りかかるのではなく、憲法や税、国際関係、その他の問題について、能う限り真摯に考え続けなければいけないのではないか。
 政治を問答の土俵に立たせるには、まず投票を通じて意志表示することだ。米大統領選の状況を懸念したり面白がったりするのは簡単だが、米国では少なくとも人々が上げる声が候補者や党の政策、意識に影響を与えているように見える。選挙は私たちの意志のありかを示すまたとない機会だ。選択肢は限られているかもしれないが、最初から諦めるのはやめよう。

V時評T【2016年4・5月号:掲載】
18歳新有権者の皆さんへ ―民主主義って何だろう?

 編集委員 牧口 明(まきぐち あきら)

 新しい年度が始まり、全国各地で新社会人、新大学生、新中学・高校生など、多くの「新○○さん」が新しい生活を始めています。その中に、一昨年 から今年に掛けて18歳の誕生日を迎え、新有権者となる予定の人たちがいます。
 マスコミ等で報道されているように、昨年6月に公職選挙法等が改定され、この6月19日に施行されるため、7月に予定されている参議院選挙から 「18歳選挙権」が実現することになっています。そこで、「民主主義の危機」が語られる現在、改めて民主主義について考えてみたいと思います。  ここ数年の日本の政治と社会の動きを見るとき、それはどうも、民主主義の拡充や人権の擁護とは反対の方向に流れているように見受けられてなりま せん。特に一昨年7月の、集団的自衛権容認の解釈改憲以来、たががはずれたような民主主義否定の動きが強まっているように思えます。その問題点を 挙げると、

@解釈改憲という、立憲主義の政治体制の下であってはならない政治判断が時の政権によってなされたこと。
Aその解釈改憲に基づいて、さまざまな問題が指摘されていた安全保障関連法制が充分な説明がなされないまま制定されたこと。
Bそうした行動を取る政権を支持する国民が支持しない国民を多くの調査で上回っていること。
Cそれを背景に、政権によるマスコミへの報道圧力が強まり、次第に政権批判ができにくい「空気」が醸成されつつあること。
Dこれまで「ネトウヨ」などと言われ、言わば「裏の世界」の現象であった粗野な言説が「表の世界」の政治家に見られるようになり、その言説が少な からぬ市民に支持されていること。

 このような現象をどのように受け止め、解釈すれば良いのか戸惑いを覚えざるを得ないのですが、こうした政治を良しとする人の民主主義理解が「数 の論理=多数決原則」に大きく傾いているように見受けられることに違和感を覚えます。
 私は民主主義というものを三つの要素で考えています。一つは、民主主義の一番基本になければいけないと思われる「基本的人権の尊重」。二つ目 は、これも民主主義を成り立たせる上ではずしてはならない、「参加の保障=手続きの尊重」。そして三つ目が、当面の方針を決定するための「多数決 原則」です。
 もし、民主主義が多数決原則だけで成り立つものとするならば、さまざまな社会的マイノリティの人権は蔑ろにされる危険性が極めて高いことは歴史 が証明しています。
 また、民主主義で大切なことは「説得と納得」です。立場の違うさまざまな人びとが一つの集団として共に行動(生活)するためには、立場の違いや 考え方の違いから生じる異なった意見を互いに尊重し、それぞれが納得できる結論を導くための十分な議論の場や合意形成のための手続きが大切です。 この議論や手続きは時に「面倒くさい」ものですが、この議論や手続きを軽視すれば民主主義は成り立ちません。
 とは言うものの、一方で私たちは、ある期限内にある決定をしなければならない「時間の壁」と向き合いながら生きています。いくら「説得と納得」 が大切でも、無制限に議論を続けることはできません。どこかの時点で「とりあえずどうするか」を決める必要性が出てきます。その時に採られる手法 が「多数決原則」です。
 つまり、多数決は「とりあえず」の結論を得るための方法であって、決めて実行してみた結果が当初の予測どおりにならなければ、少数意見が多数意 見となることもあり得るのです。
 以上のような認識に立つと、多数派が「数の論理」を振りかざして「丁寧な説明」や「手続きの尊重」をおこなわずに物事を決めるのは「数の横暴」 「民主主義の破壊」と言われても仕方ありません。この時評をお読みいただいた新有権者の皆さんが初めての選挙権を行使されるに当たって、いささか なりともこの「戯言」を参考にしていただけるなら望外の幸せです。

V時評U【2016年4・5月号:掲載】
自ら「責任」を共有し合える社会へ ―認知症者鉄道事故。最高裁判決が問うもの

 編集委員 早瀬 昇(はやせ のぼる)

 2007年、愛知県大府市で認知症の男性(当時91歳)が列車にはねられて死亡した。この事故をめぐり、JR東海が遺族に代替運送などの費用約 720万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は3月1日、一、二審判決を破棄し、遺族に賠償責任はないとする判決を下した。
 民法714条では法的責任を問えない人の賠償では、監督義務者が責任を負うと定めている。JR東海はこの規定に基づき遺族に損害賠償を求めた。 この法的責任を問えない人とは、認知症の人だけでなく、子どもなども該当する。実際、従来は子どもが起こした事故の責任を保護者が負う事例が一般 的で、過去に多くの賠償事例がある。
 しかし今回は、親が子を監督する責任ではなく、子が親を監督する責任が問われた。認知症患者が10 年以内に700万人を超えるとの推計もあり、他人事ではないと考える人が少なくないなか、判決の結果を評価する意見も多かった(注1)。

   * * *
 ただし、今回の判決で一件落着とは言い難い。
 今回は事故で損害を被ったのが、リニア新幹線で工事費5兆5000億円を自社負担するというJR東海だったこともあり、JR東海への同情の声は 広がらなかった。しかし、損害をこうむったのが個人や小さな企業だったら、人々の見方は変わっただろう。
 誰もが加害者にも被害者にもなりえる。そこで、犯罪被害者給付制度のように、介護保険に被害者給付制度を組み込むべきだとの提案もある(注 2)。
 この提案は、事故が起こってしまった後の責任を社会全体で負う仕組みだが、合わせてこうした事態を防ぐための責任についても考えねばならない。 他ならぬ介護保険制度は、この予防面も制度の一環をなしているが、現実を見れば、それだけで不十分なことは明らかだ。
 この問題を考える際に、「責任」という言葉の意味に立ち戻ることが必要だと思う。「責任」を国語辞典で引くと「責めを負ってなさなければならな い任務。引き受けてしなければならない義務」(注3)などの意味が解説されている。責めを負う、義務…と、いかにも重い。責任回避という言葉があ るように、忌避されがちなものであり、かつて自己責任論が喧伝された際のように、責任の議論では、やっかいな課題から距離を置こうとする姿勢にな りやすい。
 重い課題を抱える人々に、自己責任、家族の責任ばかりが求められては、孤軍奮闘の状況を生み出してしまう。

   * * *
 ボランティアなど他者の課題解決に自ら関わろうとすることは、この自己責任論によって孤軍奮闘を強いられる「壁」を乗り越えることでもある。そ れは、責任を問い詰めるのではなく、自ら責任の一端を引き受けることでもある。
 責任を意味する英単語の一つにresponsibility という語がある。その元来の語義は文字通りresponse=応答すること+ability=能力、つまり呼びかけやSOSの声に「応えることができる」 ことだ。ボランティアなど自発的に課題解決に取り組もうとする人々は、この意味での責任を自ら担おうと努力する存在だと言える。
 自ら問題の渦に巻き込まれ、ともに悩み、解決策を探る人々によって、孤軍奮闘する人たちが社会とつながる。そうした人々の存在を信じることで、 なかなか言い出しにくいSOSが発せられやすくなる。さらには、支える人を支える取り組みも広がることで、助け合い、助けられ合う関係が生まれ る。
 先の最高裁判決が残した宿題、認知症の人たちを社会で支えるということは、制度的な整備に加えて、こうしたつながりを再構築することでしか解決できないと思う。

(注1)ただし、今回の判決理由では、献身的に介護をするほど重い責任を問われかねないなどの批判もある。
(注2)『AERA』2016年3月21日号。
(注3)小学館『日本国語大辞典』

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