二十世紀最後の十年、すなわち一九九〇年代は、市民活動の大きな前進の時期であった。同様に芸術文化活動の分野においても、新国立劇場の設立、芸術文化振興基金の設立、企業メセナ協議会の発足、地域の公共劇場の設立、アーツプラン21の実施など、大きな進展が見られた。その後、二〇〇一年十二月には文化芸術振興基本法が施行され、文化芸術を取り巻く状況は着実に整備されつつある。
また、個々の劇団やオーケストラにおいても、演劇ワークショップや参加型の音楽教育プログラムなどの市民に開かれた取り組みがじわじわと広がりつつあり、変化のうねりを感じるこの頃である。
しかし一方で、長引く不況による企業メセナの衰退、自治体の財政悪化による芸術文化行政へのしわ寄せなど、不安要素も聞こえてくる。
そもそも私たちの社会の中で、芸術文化はどのような意味をもつのだろうか。社会と芸術文化の関係はいかなるものか。
芸術文化の中でも、今回は音楽、それもクラシック音楽に焦点を当てて、その社会とのつながりを探ってみることにしよう。
日本人とクラシック音楽の不幸な出会い
学校の国語の時間に習った小説や詩は、どうしてあんなに味気なかったのだろう。一人で読んだり書いたりするのは、あれほど好きだったのに。音楽の時間は、どうしてあんなに小難しくって緊張したのだろう。音楽室に飾ってあったベートーヴェンの肖像画があまりに重苦しかったせいもあるだろうが、元来、歌ったり音楽を聴いたりするのは嫌いではなかったはずなのに。
日本に本格的に西洋音楽が紹介されたのは、明治維新後のことである。欧化政策の一環として義務教育にもいち早く採り入れられた。しかしそれは、知識としての教養主義的なものであり、音楽を楽しむ、想像力を育てるという方向ではなかった。西欧では、教会や民衆の中から生まれてきたのに対し、いわば、日本人にとってクラシック音楽は、上から与えられたもの、「学ぶ」対象であった。
明治時代に最初に西洋音楽の演奏に着手したグループは、文部省音楽取調掛(現在の東京芸術大学)と、宮内庁の雅楽部の二つと言われるが、それもなるほどとうなずける。
クラシック音楽と聞いて、「小難しい」「堅苦しい」という印象を持っている人はまだまだ多いと思われるが、その理由の一端は、最初の出会いの不自然さにもあるだろう。
演奏家のレベルと市民への広がりの格差
とはいえ、戦後、組織的な音楽教育が行われ、若い音楽家が多数育ったことにより、日本のクラシック演奏家のレベルは、現在では世界的に見てもかなりの水準となっている。世界中で日本人のメンバーがいないオーケストラはほとんどない。また、メジャーのオーケストラのトップ奏者の席を、日本人が数多く占めているという。
それに引き替え、一般市民への広がりはどうだろうか。日本のプロ野球ファンは、四千万人ともそれ以上とも言われるが、クラシック音楽ファンは…? 音楽主催業者は「月に一回音楽会に行く人」をクラシック愛好者と仮定し、人口の二%と計算しているそうだ。ただし、これは大都市の話であり、またかなり多めの積算だろう。東京だと二十四万人。多いようにも思えるし、演奏家の世界的な活躍と比べるとあまりにも少ない気もする。
単なる趣味か、なくてはならないものか
しかし、そんなことはどうでもいいではないかという意見もある。好きな人が演奏し、好きな人が聴けば、それでいいのである。その数が多かろうが少なかろうが問題ではない。そもそも、芸術や文化は、絶対になくてはならないものではない。医療や経済のように生き死にに関係するわけじゃなし。
「いや、違う。生き死にの問題だ」と断言するのは、劇作家で演出家の平田オリザ氏である。平田氏は、その著書『芸術立国論』のなかで、芸術の「公共性」、すなわち人々および社会にとって〈なくてはならないもの〉であることを強調する。明治以降の近代化の過程は、大きな国家目標に従って価値観を一つにまとめる方向が重視されたが、今や、私たちは大きな国家目標を失い、個人がそれぞれの価値観で生き方を決定しなくてはならない時代に生きている。そこで重要になるのは、異なる価値観を異なるままにしながら、いかにうまく共同体を運営していくかということだ。そこに、現代社会において、芸術文化がなくてはならない意味があると言うのだ。
たとえば、集団でものを創る舞台芸術の根幹には「あなたと私は、こんなに価値観が違うけど、それでも私たちは同じ作品を創れるだろうか?」という問いかけがあるという。参加者全員が多様な価値観やイメージの摺り合わせをしていかないと、いくら演出家の技術がすばらしくてもいい舞台は創れないという。これは、まさに現代のコミュニティの課題である。
そもそも無駄のない社会は病んだ社会である。多様性、重層性のある社会は民主主義の根幹であり、それを保証するためには、地域社会の中に多様な芸術家及び芸術活動の存在が必要なのだ。
クラシック音楽団体の動きは
さて、では実際に芸術文化活動、中でもクラシック音楽の分野では、どのような動きが起きているのだろうか。様々な取り組みがあるが、今回はNPO法人格を取得した二つの異なるタイプのクラシック音楽組織について、お話をうかがった。
NPO法人 京都フィルハーモニー室内合奏団
京都フィルハーモニー室内合奏団は、一九七二年の結成以来、任意団体⇒有限会社⇒NPO法人という、めずらしい経緯をたどったプロの音楽団体である。
■自分達が動けば何かが変わる
三十年前、京都市内の音楽大学の同級生が、「音楽を続けたい。しかもそれで生計を立てたい」という思いから、約十名で立ち上げた。音楽大学を卒業しても、演奏で生計を立てることがむずかしく、九割は音楽をやめてしまうという状況の中、既存のオーケストラに就職することは困難なため、やりたいメンバーが自分たちで作ってしまったのである。
三十年前と言えば、ちょうど学園闘争のあとである。学生運動には直接関わっていなかったものの、「自分たちが何かを起こせば、何かが変わるという意識があった」と、理事長の小林明さんは言う。
設立にあたっての信念は、(1)演奏で生計を立てる、(2)多くの人々にいい音楽を聴いてもらう、(3)日本の新しい音楽文化を創る、の三つ。まず生計を立てるために、小学校へ出向いての公演活動から始めたそうだ。演奏料は生徒から一人六十円ほどを集めたものだったという。
■音楽家、演奏者自身が変わること
この学校での演奏活動は今でも続けているが、その中で直面したことから、その後の考え方の基本になったことがいくつかあるという。
その一つは、待っていても仕事は来ないということ。そこで演奏者自らが班に分かれて仕事を取りに行くということをやっていったそうだが、その中でメンバー達はあまりに社会を知らないことに気づき、視野が広がったという。
もう一つは、一方的に演奏するだけでは子どもは聴いてくれないということ。考えてみたら、それまでの発表会はほとんどが身内や友人が来ているので、一生懸命聴いてくれて当たり前だった。しかし子どもは違う。演奏が始まった途端、騒ぎ出す子もいる。「初めて、聴衆がいるんだということに気づいたわけです」と小林さん。そこで、聴く側の立場に立ったプログラムづくりを工夫するようになったそうだ。
小林さんは、「音楽家というのは、やはりエリートです。子どもの項から特別な音楽教育を受けていると、社会から遊離してしまう。そして、聴く側のことをあまり考えないでも、演奏できてしまう。でも、それでは音楽は広がっていかないし、根付いていかないのです。演奏者自身からの発信がもっと必要です」という。
■NPO法人にならない理由がみつからない
その後、親子劇場に口コミで広がったこともあり、食べていけるようになった。次なる課題は、保険や年金など自分たちの身分保障をどうするかということ。いろいろ研究の末、有限会社を選んだ。
ところが、有限会社を名乗っている以上、いくらミッションは違うといっても、一営利組織としか見てくれない。具体的には、京都市内の中学校が少子化のため廃校になった時、練習場に貸してほしいと思い、地元の了解も得て市の教育委員会に申し入れたところ、「有限会社だから、絶対にダメ」と貸してくれなかったという出来事があったそうだ。
それからしばらくしてNPO法が出来るということを知り、「もともと自分たちは公益のことをしていると思っていたのでまったく違和感がなく、むしろNPO法人にならない理由がない」ということから、メンバー全員の合意のもとに申請を行った。
■さらに「市民のための合奏団」をめざして
二〇〇〇年一月にNPO法人の認証を受けたことをきっかけに、さらに「市民のための合奏団」をめざし、協力会員の募集を開始した。創立二十周年に「京フィルを応援する会」が発足していたが、これを発展的に解消し、新しい会員組織を立ち上げたのだ。現在、会員は百六十名。年四、五回会議を開き、活動状況等について意見交換をしている。今後、協力会員等からホームページや機関紙作成に関わるボランティアが生まれるのを期待している。また、「市民の中から、自分たちが聴きたい演奏会や音楽プログラムを企画したり、演奏家と協働して実施していくようなNPOがどんどん生まれていけば…」と小林さん。京都フィルハーモニー室内合奏団の取り組みは、そうした新たな活動を起こさせるような魅力ある触媒の役割も果たしている。
NPO国際チェロアンサンブル協会
神戸市中央区元町駅の近く、エレベーターのないビルの五階に協会の事務所がある。理事長の松本巧さんは、数日前にべルリンから帰国したばかりだった。
■ある出会いから
アマチュア・チェリストとして国内外で活躍していた松本さんは、一九九三年にドイツ政府迎賓館のコンサートに出演した際、スザンナさんという八十代の女性と偶然仲良くなった。実は彼女は、ベルリンフィルハーモニーのチェリスト、ヴァインツハイマー氏の義理のお母さんだった。
松本さんがヴァインツハイマー氏との対面を果たしたのは、「十二人のベルリンフィルのチェリスト達」が一九九六年七月に神戸でチャリティ・コンサートをした時である。リーダーのヴァインツハイマー氏は、コンサート後、松本さんが経営する串揚げ屋に全員を連れてやってきたそうだ。意気投合したヴァインツハイマー氏は、かつてベルリンのポツダム新宮殿前で行った三百四十一人のチェリストによるコンサートの素晴らしさを語り、これを東京でやれば千人は集まるのではないかと提案した。しかし、松本さんは「震災後のこの神戸でやらないか。神戸でやるなら協力する」と即答したそうだ。
■一〇〇〇人のチェロ・コンサート実現
それから松本さんは、実現に向けて奔走する。当初はプロのプロデューサーを雇っていたそうだが、考えの違いから二カ月半で解任したあとは、本当に手作りで進めたそうだ。国内のおびただしい数のクラシック音楽団体(プロ・アマともに)に呼びかけ文を郵送し、海外の演奏家とも連絡を取った。
しかし、参加者は思うように集まらなかった。一九九人年十一月の当日をめざして、同年四月から受付を開始したが、五月で約二百人しか集まっていない。その理由は、四回の合同練習参加の義務づけだった。もちろんすべて自費なので、遠方の人が躊躇するのも当然だった。しかし、演奏の水準は絶対に下げたくない。
そこで松本さんはやむなく地域ごとの「分奏」という方法をとった。しかし、これがコンサート後に予期せぬ展開を生むこととなるのだ。十一月二十九日当日は、趣旨に賛同した四歳から八十七歳までのチェリストが、プロもアマチュアも含めて日本全国より参加。さらに世界各国からの参加もあり総勢千十三人でコンサートが実現したのである。これは、ギネスにも載る史上最大のチェロアンサンプル・コンサートであった。
■演奏者自身が動き出す
聴衆はもちろんだが、なにより演奏者自身が大きな感動を得たという。その後、「もう一度やりたい」「震災の時は何もできなかったが、チェロを通じて社会に貢献できないか」という声が各地であがってきた。さらに、練習のために組織した「分奏グループ」が、コンサート後もプロとアマ、年齢、職業等の違いを越えて同窓会やアンサンブルとして活動を展開し始めていった。
そこで、それらの思いを受け止め、活動を継続させていくために、各地の分奏リ−ダーを中心とした全国組織を作ることになったという。そして二〇〇〇年八月「NPO国際チェロアンサンブル協会」が誕生、二〇〇一年二月に兵庫県よりNPO法人の認証を受けた。
初めから国際規模であり、また日本全国からメンバーが集まっているため、所轄庁は内閣府かと一瞬思ったが、あくまで事務所は神戸だ。「千十三人ものチェリストが集まったのは、やはり阪神大震災の復興という趣旨に賛同したからこそ」と、ご自身は神戸、東京、ベルリンを駆け回っておられる松本さんの「地域」に対する思いは深い。
■我々だからできることを
その後協会は、「有珠山復興支援チャリティ・コンサート」「日韓親善チェロ・コンサート」等を実施。また第二回「一〇〇〇人のチェロ・コンサート」には海外十四ヵ国からの参加があった。次なる企画も目白押しである。八月には専従の事務職員を採用。現在、会員は二百四十人だが、目標は千人だそうだ。NPO法人としてこれからの課題は、「我々だからできる収益事業を考えていくこと」という。
第一回「一〇〇〇人のチェロ・コンサート」は、阪神大震災で亡くなった人々への鎮魂の思いを込めると同時に、あのフランコ独裁政権を拒否してスペインを去り、抵抗活動と創造活動を続けた名チェロ奏者パブロ・カザルスの没後二十五年を記念するものでもあった。松本さんの思いや協会のめざすものを象徴しているようである。
新しい広場として
京都フイルハーモニー室内合奏団とNPO国際チェロアンサンブル協会は、まったくタイプの異なる音楽団体である。しかし、お話をうかがう中で、共通して浮き彫りになったことがある。
一つは、多様で多元的な出会いの場を作っているということだ。言葉を換えると、境界線をなくす、あるいは低くする活動いってもいいだろう。すなわち、演奏する側と聴く側、子どもとおとな、プロとアマチュア、日本人と外国人が出会い、協働する場をつくり、そしてそれによって相互理解を進めている。平田オリザ氏は、日本には他者との出会える「新しい広場」が必要だと指摘する。そして劇場や音楽ホールなどの文化施設は、本来そうあるべきだとも。今回取材させていただいた二つのNPOは、もちろん劇場やホールを持っているわけではない。しかし、その本来の意味を体現する活動を行っいるように思えた。
地域における芸術文化
二つ目に、「地域」を重視している点だ。『芸能自書二〇〇一』に驚くべき数字が載っている。日本で一九九九年に開催されたクラシック音楽の公演回数は一万九百二十三回。都道府県平均は、二百三十二回である。しかしこの平均数を上回ったのは四十七都道府県中、わずか十か所のみ。理由は、圧倒的な東京一極集中があるからである。第一位の東京四千六十回に対し、二位の大阪はたった九百七十一回である。
京都フィルハーモニー室内合奏団の「出張コンサート」 の取り組み、「一〇〇〇人のチェロ・コンサート」後の各地での「分奏グループ」の活動などがあってこそ、地域でクラシック音楽が根付き、そして、芸術文化が生活や社会になくてはならないものであるという認識が広がっていくのだろう。
今ほど、新しい地域のつながりが求められている時代はない。それはかつての「ムラ」に戻ることではなく、多様な価値観を摺り合わせていくプロセスを経て、初めて得られるものだ。もはや、私たちは同じ地域に住んでいるだけでは共同体への帰属意識は生まれない。それは福祉の分野でも教育の分野でも直面している課題である。
音楽はただ楽しむだけでかまわない。しかし、そこから派生する意味と力を、市民に開かれた形で活かしていく時、現代社会において多様な人々が集まり価値観の摺り合わせをしていく広場としての意味を持つということを、二つのNPOは示してくれている。
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