No.376 / 2002年6月号 [前のページに戻る]


第4回
大阪市立北市民館と志賀志那人

 一九一八(大正七)年、富山県魚津で火蓋を切った米騒動は、瞬く間に全国を席巻し、軍隊の動員を待たねば沈静化せず、ために時の寺内内閣は総辞職した。大阪では、その米騒動の収拾のために米廉売資金が集められていた。その残金を府・市で折半したのであるが、府(林市蔵知事)では発足したばかりの方面委員制度のために利用した。市(池上四郎市長ー秋篠宮妃紀子曽祖父)では「中産階級以下の娯楽機関として市民館創設資金」二十七万七千円弱が市に指定寄附されたのを受けて、一九二一(大正十)年六月二十日、天神橋筋六丁目(天六)に日本初の公立セツルメント「市立市民館」を開設したのである。これが、一九八二(昭和五七)年十二月に閉館を迎えるまで六十二年間にわたって、大阪ばかりでなく全国の社会福祉界に歴史的シンボルとして存在した「大阪市立北市民館」(一九二六年の天王寺市民館開設とともに改称)の始まりであった。
 当時、府では前知事大久保利武が招聘した小河滋次郎が救済課事務嘱託として民間社会事業関係者を救済事業研究会に組織していた。一方、市では池上市長のもとで、関一高級助役、天野時三郎初代社会部長、山口正課長、志賀志那人主事、上山善治主事など、後に市社会事業行政の中枢になる人たちが集められていたのである。この時代には、社会事業は警察行政の仕事であった。池上市長は、会津藩士族で一八七七(明治十)年に警視庁巡査に採用され、各地を転任した。市長就任前の十数年間は警部長として大阪の警察行政の頂点にいた。その後、市長としては三期十年を担当し、社会事業行政の基礎を築いたとされている。天野も入市以前には警察官であり、難波署長として貧児のために夜学校の創設に貢献したり、部下の救済事業への献身を督励したりしていた。ちなみに関はその後市長となり、近代的な市政運営をした名市長と評価されている。社会部長は、天野から山口、志賀と受け継がれ、上山は後に財団法人弘済会(現在の市立弘済院)会長になった。これらの市社会事業行政に携わった人たちは、いずれも気鋭の人たちで、特に山口と志賀は、京都と東京の違いこそあれ、どちらも帝大で社会学を学んだ学究であり、また上山と志賀はともにクリスチャンで、入市前は大阪基督教青年会(現大阪YMCA)の仲間であった。
 ところで、現在の天六・長柄辺りは、江戸時代には、大阪七墓として千日・鳶田・小橋・蒲生または野江・浜・梅田とともに知られた吉原墓地があった跡であるという。またすぐ近くの今の扇町公園辺りには一八八二(明治十五)年、堀川監獄署が新設され、「泣く子も黙る」と恐れられていたという。明治末までは水田風景を残し、東天満・西天満から北は、人家はわずか数軒であったとされる。しかし「大大阪」への発展とともに、近在の村から天満市場へ農作物を運ぶため長柄橋を渡って天神橋に向かう農民の往来が増え、その帰途を待つ商店が立って北へ延び、さらに市電や新京阪線(現在の阪急京都線)が開通すると共に新淀川の水運に加えた交通の至便さから中小工業の最適地となっていった。監獄は一九二〇(大正九)年に堺に大阪刑務所として移転し、跡地は一九二三(大正十二)年に公園となった。しかし天六・長柄近辺は、短期間に急速に発展したため住宅が密集し、明治末から大正年間当時ともなれば、市南部の長町などとともに長柄・本庄が生活困窮者の居住地域として知られるようになっており、都市の貧困問題が集約的に生起していたのである。
大阪市立北市民館 市民館の計画は、当初は島村育人(羽衣学園創設者)が、その後は志賀が中心になって進めたが、初代館長には志賀が部長待遇で就任した。当時まだ二十九歳という年齢からすれば、破格の待遇といえるだろう。この後一九三五(昭和十)年五月まで北市民館々長として在職した後、社会部長となったが、一九三八(昭和十三)年四月に四十六歳で現職のまま逝去した。館長在職中は、たとえば銭湯で近隣住民と親しく世間話をしながらニーズ調査をしたことを指して「風呂屋社会事業」と伝えられるように、地域の福祉問題を積極的に把握し、その改善方法を模索し続けていた。市社会事業行政の闊達な雰囲気と志賀館長の人柄は、市民館の事業にも反映し、身上・法律・職業相談、講演会・講習会・図書貸出・娯楽会、町内会・クラブ・諸集会、託児・保育組合、一般診療・歯科診療、授産・信用組合・生業資金融通などの多岐にわたるばかりではなく、実に自由な運営がなされていたようだ。館閉鎖まで十四代にわたる歴代館長には、「志賀イズム」としてその伝統が受け継がれたという。
 しかし、あまりにも公立らしくない運営のために、開設翌年の九月にはプロレタリア演劇集団「異端座」の公演をめぐって臨監の警官と劇団員や観客に一悶着あり、館長が困ったというようなことも起こったらしい。また館とは直接関係ないが、一九三三(昭和八)年に天六交差点にできたばかりの信号を無視して通行した兵士と巡査のもめごとが府知事と陸軍師団長の、つまり内務省と陸軍省の対立にまで発展し、陸軍優位の解決に終わった「ゴーストップ事件」があった。これも、志賀館長の在任中のできごとである。直接あるいは目前にこれらの出来事を経験した志賀は、それからの日本をどう考えていただろうか。早すぎるその死からは窺い知ることができないのが残念である。もう二十年以前に市民館も取り壊され、今はただ模型のみが「大阪市立すまいのミュージアム」一階に展示されて、往時を伝えるのみである。

(編集委員  小笠原 慶彰)


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