No.367 / 2001年7・8月合併号 [前のページに戻る]

この人に ...No.175
●山田太一(作家)● 
◆◆自分の宿命を受けとめ、その上で自分の可能性は何かをリアルに考えるところにこそ、人間のこれからの姿がある◆◆

●固定化されたものの捉え方や考え方に支配される

 私たちの社会では、ものの捉え方や考え方というのは、非常に重要です。ものの捉え方というのは柔軟に変化したり、ときには固定化したりします。そして特にその社会全体の「人間はこういうものだ」という捉え方が、われわれを幸せにも不幸せにもすると思うんです。
 例えば、脳性マヒが正しく理解されていなかった頃は、前世に問題があったんじゃないかとか、親が悪いんだ、などと言われたことがありました。しかし、今そのような考えは非常に特殊で、それが事実でないことは多くの人が知っています。これは社会全体の考え方が、言葉だけでなく心も変化した、しかも良い変化をしたんだと思います。
 それに対して、テレビなどを見ておりますと、まだこんな考え方をしている人がいるのかと悲しくなるような発言を耳にします。
 NHKの「クローズアップ現代」という番組で、長生きする秘訣をテーマにしたお年寄りの特集をしていました。番組の中で、ある大学教授がお年寄りにヒヤリング調査をします。そこで大学教授はお年寄りに「夢を見たりボーッとするなど、無駄な時間を過ごすのが好きですか?」「空想するのが好きですか?」といった趣旨の質問をするのです。
 しかし、夢を見たりボーッとすることは決して無駄なこととは言えないし、その人の大切な時間の過ごし方のひとつです。そこには「時間を無駄にせず、ボーッとしていなければ長寿になれる」といった番組の主張が見え隠れするのですが、それは一方的な価値観の押し付けです。
 似たような事例は、ほかにもあります。これもまた別の教授が、「誰でも長寿を願っている」ことを前提に話をしていることがありました。誰もが長寿を願っているとはいえないし、長さよりも質を大切にしたいと思っている人も多いでしょう。
 また、これはある女性のニュースキャスターが、社会的弱者を助けて彼らも「社会の資源」になれるようにしていこうといった発言をしていました。これも役に立たない者はいらないというような価値観を背景に感じる発言であると思いますし、こうしたものの捉え方は私たちの社会にすり込まれているようです。
 こうした一連の発言は社会的強者によってなされています。そして、強者はおおむね細部に鈍感です。言葉に頼りすぎる傾向もあります。そして、言葉というのは共通性で論じられやすいところがあります。でも、言葉にならないこと、心や気持ちの部分が人間にはたくさんあるはずで、そこへの配慮が足りない気がするのです。

●言葉と人間の心のギャップ

 こんな映画がありました。あるハリウッド映画で、ニューヨークに住む老人がシカゴに住む娘に会いに行くため一匹の猫と旅をします。娘と再会したおじいさんは、ミシガン湖のほとりを娘と歩きながらこんな話をします。
 「大切な友人がどんどん死んでいく。とても淋しい」。
 娘は老いた父を励まそうとして言います。
 「古い友人を亡くしたら、新しい友人を見つければいいじゃない」。
 これは積極主義というのか、合理主義というのか、前向きに生きることを勧める娘のセリフなんです。しかし、私はこれは三十代くらいまでの理屈ではないかと思います。七十代や八十代で新しい友人といってもそんなに簡単にできるものでもありませんし、第一、生涯の友人は、亡くなったからといってとっかえればすむというものではありません。
 亡くした友人はおじいさんにとってはかけがえのない存在であるのに、歎くなと言われてしまう。悲しむひまもなく、おじいさんは辛い気持ちをこぼすこともあきらめることになります。このような言葉の正論と人間の心のギャップを強く感じるのです。

●努力すれば必ず解決するという前提

 イギリスのある文芸評論家がこんなことを言っています。十七世紀ごろから人間の本当の姿と語られる言葉に開きが出てきて、今でもその開きは拡大していると。
 ルソー(Jean-Jacques Rousseau)は「自然に還れ」と言いました。彼は「教育」というものを非常に憎悪した人でもあります。現在でも、そういう考えの人は少なくなく、人間の歪みは教育の歪みだという議論はいつもあります。
 しかし、自然に還れば人間は善でしょうか。悪しき教育をなくせば、いい人間が育つというのは、これもまた一種の教育万能主義でしょう。人間には内在する”悪“の部分があります。嫉妬やねたみ、はっきりとした理由はないんだけれども気にいらないヤツ、そういう感情は誰しもが持っているのではないかと思います。しかし、現在行われている議論は、人間のそういった始末におえない部分を忘れてしまったかのように、とことん話し合えば理解し合える、なくせない悪はないという考え方に支配されてしまっているようです。
 言葉にはまだ捉えられていないもの、捉えられないかもしれないものがあります。そういう部分をないものにしてしまっている。私はこうした合理主義に浅薄なもの、浅はかなものを感じてしまいます。

●世の中にはグレーな部分もたくさんある

 とはいっても、私も若い頃はあいまいなことをクリアーにすることはよいことだと考えていたような気がします。しかし、人間の全体を捉えれば、クリアーにならないもの、わけのわからないものは世の中にたくさんあるんですね。善と悪というふうに単純には分けられないように、世の中には白黒はっきりできないグレーな部分もたくさんあります。
 みんなの認識も複雑になっています。平和や家族、豊かさなどにしても幸福感が複雑になってきたというか、多義にわたってきたといいますか、とにかくひとつの議論でくくれなくなってきています。
 この世には、人間の努力だけではどうにもならないこともあると思うのです。人間の宿命というのか限界というのか…、分かりませんが。世の中はまだまだ人間の努力を過大に考えすぎてはいないでしょうか。
 ミラン・クンデラ(Milan Kundera)は小説「無知」の中で、人間は目先のちょっとしたことくらいしか分からないのではないかと言っています。自分達は実は何もわかっていないのではないかという「無知の発見」です。確かに人間は無知です。
 私たちは無知を認めたがらず、人間の知を大げさに考えたがりますが、実のところ、何を知っているというのでしょうか。その上、無力です。一度起こったことで解決するものはごくわずかです。だからといって、投げやりになるのは子どもの生き方で、私たちは無知無力に取り囲まれて、なおできることに全力をそそぐ存在でありたいものではないでしょうか。

●ある価値観を排除する価値観

 また映画の話で恐縮なんですが、レオナルド・デカプリオ主演の「ビーチ」という大変示唆深い作品があります。米国での単調な生活に別れを告げ、タイへ向かった青年が、現地で秘密の楽園への地図を手に入れます。そこには、若くて美しくて丈夫で幸せそうな人たちが住む楽園があり、主人公はそこで楽しい生活を送ります。
 しかし、あるとき楽園の住人の二人がサメに襲われて重傷を負います。そこで住人達はもめます。二人を病院へ連れて行かなければいけないが、外へ連れて行けば楽園の存在が知れてしまうからです。結局、二人をテントのようなところに収容します。つまり、プラスの要素をもった選別された住人ではなくなった二人を、ほかの住人が見ないふりをするということで排除したわけです。
 この映画は取り上げたテーマは非常に鋭いのですが、結論は実にふにゃふにゃしていて、なんだかよく分からないうちに終わります。しかしそれも、ひょっとすればよく分からない、解決しきれない現実の社会を描こうとしたのかもしれません。
 知っていても避けられない人間の宿命や限界があるとするならば、私たちはそれを受け入れるか、見ない振りをするかのどちらかしかできないのかもしれません。そして見ない振りをして、人間の力を過大に考えて進歩を信じ続けたのが、一七世紀からの今までの流れなんだろうと思います。

●リアルに生きるということ

 しかし、もうそういう人間万能、努力万能では生きていけなくなってきたのではないでしょうか。信念をもってあくまでそれをつらぬくというような時代ではなくなったという思いがあります。
 今でも、自分の意見を持てとか、意見を言えるようにならなければならないといった主張をよく耳にします。しかし私は逆に、意見を言えない人のほうがよりリアルな人間である気がしています。なににでもテキパキ意見を言うなどというのは、いかがわしくはないでしょうか。口ごもり、迷っている人のほうが、自然だし、むしろ温かい気がします。
 信念を持つと、持っていない人を裁こうとします。そうすると、ある価値観以外のものを排除しようとしたり、言葉と人間の実態が離れてしまいがちです。私はむしろ、信念などに頼ってはいけないのではないかと思っています。
 人間には、内在する”悪“もあり、努力してもどうにもならないこともたくさんある。だから私は、自分が無知だというところに立ち返りたい。そうして自分の宿命を受けとめ、その上で自分の可能性は何かをリアルに考えるところにこそ、人間のこれからの姿があるように思います。

(編集委員 岡村こず恵)

*この内容は、二〇〇一年六月二日に箕面市民会館で行われた豊能障害者労働センターとゆめ風十億円基金主催の講演会の内容を記事にしたものです。取材にご協力くださいました関係者の皆様に、お礼申し上げます。

●やまだ・たいちさん プロフィール●

作家。一九三四年東京生まれ。早稲田大学教育学部卒業。松竹助監督を経て六五年フリーのシナリオライターに転向。八一年NHK放送文化賞、九一年日本アカデミー賞脚本賞など受賞。テレビドラマ「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」、小説「飛ぶ夢をしばらく見ない」「見えない暗闇」ほか映画、戯曲など多数。家族や会社、友人、恋愛、老いなど慣れ親しんだ日常のテーマから生きることのせつなさを感じた登場人物が、それでも戸惑いながら静かな勇気をもってもう一度一生懸命生きようとする、等身大の人間の姿を描いた作品が多い。


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