月刊ボランティア〜Internet Edition〜
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No.360/ 2000年11月号

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これは特集のダイジェスト版です。全文はぜひ『月刊ボランティア』本誌をお求めの上、ご覧ください。

   特 集

民主的市民教育の一環としての社会貢献活動を反対提案しよう!

関西学院大学法学部 岡本 仁宏


 私は、社会貢献活動が教育のなかに国の制度として取り込まれることに賛成である。ただしそれは、現代的な民主的市民教育の一環としての位置づけをきちんと与えて本気で行うべきである、と考える(なお、18歳以上の成人に対して課される公役務については別の議論をする必要があるので、ここでは高校までの学校教育で、という内容として議論したい)。

 また用語の問題に関して、私は、国民会議の報告に使用されている「社会奉仕活動」ではなく、「社会貢献活動」という用語を用いたいと思う。それは、社会奉仕という言葉の持つ「奉り仕える」的なニュアンスを取り去り、市民の社会活動にふさわしい言葉をと考えたとき、今のところ社会貢献という表現がベターであろうと考えるからである。

 このことに関連して、今回の「奉仕活動の義務化」に対して「ボランティア活動は強制してはいけない」という批判があるが、これは全くの的外れである。義務化された社会貢献活動(社会奉仕活動)はもちろんボランティア活動ではない。そのことは、今回の報告の主唱者である曾野綾子氏も先刻ご承知のことで、「社会奉仕活動とボランティア活動とは別の概念である」ことを強調している。問われているのはあくまでも、「社会貢献活動の義務化の是非」なのである。

民主的市民教育の一環としての社会貢献活動を!

 以上の前提の上に立って、今回の「社会貢献活動の義務化」問題について論じてみたい。初めにも述べたように、私自身は、国が制度的に社会貢献活動を教育の中に取り込むことには賛成である。ただし、それには以下のような積極的位置づけとそれにふさわしい制度、条件整備が行われるべきであると考えている。

@社会貢献活動の義務化は民主的な権利拡充、参加制度、市民的政治教育の充実とあわせて行う

 義務には権利が伴うべきである、ということは、日本においてすでに確立された制度的現実ではない。たとえば、自分の地域の小学校や中学校の建物といような最も中心的な地域コミュニティの各施設の設計ですら、地域の実質的な参加に基づいて決定されることはほとんどない。保護者や地域住民にとってすらそうであれば、中学生、高校生などの生徒には全く意志決定への参加の機会が与えられていない。しかし、我々が本当に、次代をになう民主的な市民の育成を考えるならば、中学生、高校生それぞれの段階で決定に参加する機会を奪うべきではない。自分たちの地域の問題についてはもちろん、世界的な出来事に至るまで生徒の社会活動を励ますべきである、と私は思う。生徒たちの請願活動や意見表明、署名活動や手紙運動など、様々な社会活動を 禁止するのではなく、市民的な意見表明、討論の方法とルールとを学ぶ機会として位置づけて助長すべきである。そのような市民活動の活発化は成熟した市民教育にとっては当然であって、禁止したり抑制したりしているのがおかしいのである。

 周知のように、ボランティア活動を含む市民の社会貢献活動にはソーシャルサービスとともにソーシャルアクションとがある。積極的に社会に対して働きかけていくソーシャルアクションの活動の自由を保障しない時にソーシャルサービスを強制しようなどというのは、奴隷的な臣民教育ではあっても民主的な市民教育ではない。

A受け入れ先決定の地域への分権化を進めるとともに、国家の担う公共性よりも広い市民的公共性を担う諸団体での受け入れを実現する

 主権的国家制度の権力の相対化が言われる現在、国家への求心力を再度強化するような政策が妥当であるのか、という問題がある。これには二つの水準の問題がある。  一つは、国家以外の様々な公共性を担う単位、例えば地方自治体や国際公共性を担おうとする組織、例えば国連などとの関係においてであり、もう一つは、国内外のNPO/NGOとの関係である。「『奉仕』という言葉の下、狭い価値観への服従が強要されかねない」という早瀬氏の危惧は、もっともである。したがって、いかに幅広くこの社会貢献活動の受け入れ幅を広げるかは最も重要なポイントの一つである。  そこで第一に、国家機構への組み込みによる共同生活の実施などの必要性は特に認められない。むしろ、国による一律の派遣先決定ではなく、地域での運営委員会による受け入れ先選定など広範な分権化の実現を図るべきである。  第二に、受け入れ先団体についても幅広い公共性の把握のもとに、広範囲なNPOに門戸を広げるべきである。たとえば、アムネスティ・インターナショナルは日本の政府に対する批判的主張のせいで、つい最近まで公益法人となることができなかったが、そのような限定的理解ではなく、国際的に活躍する多くのNGOや、政府の政策と一定の緊張関係を持つような多くのNPOに対しても広く公共性を認め、活動の受け入れ先として認めるべきである。そのような政策は、むしろ日本の国の権威を高めるだろう。

B送り出し・受け入れ条件の抜本的改善を行う

 送り出し条件の改善が図られるべきである。「大した研修も受けない若者が受け身的に」関わることへの批判ももっともである。だからこそきちんとした研修・教育を行った上で送り出そう。そのための学校教育への職員配置や、NPOによる研修の導入なども検討されてしかるべきである。

 同時に社会の諸組織は、学校だけが教育責任をもつのではないということを受けとめるべきである。その意味では、今回の提案は受け入れ側に手が掛かるのを前提とした制度であるといってよいであろう。社会、地域コミュニティが、看取りやケアの機能を病院に、教育の機能を学校に、それぞれ完全に譲り渡してしまうことは、イリイッチが鋭く指摘したように、決して妥当な社会のあり方ではない。病人や障害者を社会や地域コミュニティでケアし死を看取り、職場でも能率しか考えないのではなく、教育を社会自体が自らの本来の職務として引き受けることが必要である。

 ただし、それには受け入れのための資源が必要である。特に我々NPOがこのような重要な公的機能を引き受けるのであれば、当然にその費用が社会的に調達できるような制度が必要である。スタッフの雇用も必要になるであろうし、事務経費、プロジェクト経費もかさむだろう。そのコストが、引き受け人数に時間をかけた形で支給されることは当然であろう。

C多様なメニューを作り、生徒に選択の自由を与え、同時にインセンティブも与え、できるだけ強制の要素は減らす

 教育に一定の強制が必要なことは、当たり前である。それは、教育現場が社会であるかぎり一定のルールがなければ成り立たないのは当然であるし、教育の機能の一部として明らかに文化伝達機能があるかぎり、これだけは学んで欲しい、学ぶべきだ、という内容が存在するからである。自分たちが社会を形成するという重要な機能を担うべきであり、その社会に対して貢献するべきである、という規範は、伝えるに値する。重要なメッセージは、「奉仕せよ」ではなく、「社会を形成する権利と責任を持て」である。

 とは言うものの、実際にはできる限り強制性を薄める努力をすべきであり、そのためには多様な活動メニューを用意することが重要である。例えば、芸術活動が好きな生徒が美術館での社会貢献活動をするのもよいだろうし、数学が好きな青年が地域の算数嫌いの子どもたちに教える社会貢献をするのもよい。多様なメニューが作られるためには学校が地域に開かれ、地域も子どもたちの社会活動を引き受ける姿勢が重要である。

 同時に、社会貢献活動において、積極的で派遣先から高く評価されたような場合には、学費免除や大学進学での奨学金の付与などのインセンティブをつけることがあってもよいだろう。

 ところで、この問題のポイントの一つは「社会貢献活動を拒否する自由」を認めるかどうかである。私は、このことに関しては基本的に欠席扱いをすればそれでよい、と考えている。学校としては、明確にこのような社会貢献活動の教育への組み込みの意義を伝えるように努力すべきであるが、最終的には生徒とその保護者との判断で欠席を選択する自由を認めればよい。全体としての欠席日数の状況については、現在でも、学校は様々に個々のケースに応じて対応している。別に義務的であるからといって、警察が来て罰金とか収監とかをする必要はもちろんない。

本気でしなさい。さもなくば、おやめなさい。

 以上のような意味で私は、民主的市民教育の一環としての社会貢献活動の義務化については賛成である。政府の「奉仕活動の義務化」に対しては、以上のような反対提案をしたい。しかし、本気で民主主義の担い手としての市民教育をするつもりのない、単に「大人の仕事は大変なんだ。一回体験してみれば分かる」とか、「社会にお世話になっていることを自覚しなさい」とか、「公共への奉仕を体験させたい」とかというような水準で、十分な位置づけのない現代的な意味を持たない義務化であるのなら、そのような提案は葬り去ったほうがましであろう。

 私たちはもっと先を望んでいる。私たち市民は、市民として次世代の教育への権利と責任を持ちたいのだ。多くの役人も、また同様に多くの革新的な活動家たちも、日本の民主主義は未熟で危なっかしいと言い続けてきた。しかし、様々な実験をできる力を私たちはつけているのではないか。その力に対する信頼なしには民主主義の「未熟さ」からの脱却はあり得ないのだ。私たちは、世界の民主主義の最前線で闘っていく責務を引き受けるべきなのだ。民主主義の担い手としての市民教育を反対提案しようではないか。

<注記>この原稿は紙幅の都合で約3分の2にカットしている。オリジナル原稿は、 以下に掲載予定。 http://chu-shiba.kwansei.ac.jp/okamoto-seminar/okamoto/index.html#pap

 他に『奉仕活動に異議あり』横須賀俊司(鳥取大学助教授)、『「はじめに義務化ありき」の奉仕活動に反対―学校が行う学習としての意義と構造を明確に』宮崎猛(都立八潮高等学校教諭)などを掲載。


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