見えない援助
知的障害をもつ人は、おおむね知能指数という指標によって、軽度・中度・重度と区別されている。しかし「障害」をその人が生きていく上での生きづらさだと考えれば、はたして何をもって区別されるかは難しい問題であり、「軽い」と言われる知的障害者も、実は抱えているしんどさは大きい。
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先日、そんなことを改めて考えさせられる依頼があった。依頼者は、いわゆる軽い知的障害をもつ二十六歳の青年で、一緒に外出してくれる同年代のボランティアを紹介してほしいと言う。
知的障害者にガイドヘルパーを派遣する大阪府下の自治体は増えつつあるが、その多くは、療育手帳の判定A・B1をもつ人(重度知的障害者)に対象を限定しており、残念ながら彼は対象外であった。今後、対象枠が軽度の人にも拡大されることは切なる願いであるが、しかし、話を聞き進むうち、仮に彼が制度の対象になったとしても、彼の本当のニーズは満たされないということがわかってきた。なぜなら彼が求めているのは、ボランティアという名の「友人」なのである。制度は友人を紹介してはくれない。
本当は、こういった制度では埋められないニーズこそ、ボランティアの関わる意義は大きいはずだ。しかし現実として、彼にボランティアを紹介するのは至難の技である。なせなら彼のようなケースは活動希望者のニーズにマッチしにくいのだ。彼のような大人の知的障害者と個別に関わる活動を希望する人は、皆無に近い。
ボランティア活動は、まず、自分がやりたいと思う活動を選ぶことから始まる。活動を通じて充実感や達成感を感じることこそ多くのボランティアが期待していることであり、それは、活動の内容が明確で成果がきちんと確認できた時に、もっとも手に入れやすい。たとえば、車いすを利用している障害者の外出介助のように、「自分が車いすを押すことによって、出かけることができる」という援助がある。これは、言い換えれば「目に見える援助」と言えるだろう。「自分がいなければ、その人はその場へ行くことはできなかった」という事実は、行った甲斐があったというボランティアの達成感につながる。それはボランティアに、その達成感という嬉しさや喜びを与えるだろう。
しかし、この種の「見える援助」は、時として「してあげている」というような錯覚を起こすこともある。対等な関係をどこかに置き忘れたこういう活動は、自己満足的なものになりやすいし、自分が行っている行為だけに目を奪われ、相手の気持ちには鈍感になってしまう場合もあるのだ。
一方、具体的に「今日はこれをした」と明言できないような活動も、実はボランティア活動には少なくない。ある精神障害者の作業所の職員が「ボランティアに具体的に何をしてほしいというのではありません。ただ来て世間話をしてくださることが、当事者の人間関係の幅を広げることになるのです」と話されたことがあった。また軽い知的障害の息子をもつお母さんが「ボランティアに望むのは、この子たちに寄り添ってくださることです」と言われた言葉も忘れることができない。
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人が人を必要とするのは、何も困った時や手助けがほしい時だけではない。共に喜んだり、楽しんだりしてくれる誰かを必要とする時に、そばにいて話しかけたり、一緒に笑ったりすることが、何にもまさる大きな援助になることもあるのだ。確かにボランティアの側に立って言えば、自分の活動が目に見えるものでないのは不安であり、「自分のやっていることに意味はあるのか」「自分は何かの役に立っているのか」と思い悩むこともあるだろう。しかしそんなふうに悩んだり考えたりすることで、彼らの活動はさらに深まっていくのだとも思う。
そして相手にとって自分がかけがえのない存在になった時、存在そのものが「見えない援助」になると言えるのではないだろうか。そんな依頼者との関係を紡いでいくことこそが、実はボランティア活動の一番の醍醐味であり、ボランティアだからこそできる、ボランティアにしかできない援助なのである。
東牧 陽子 ◆