月刊ボランティア〜Internet Edition〜
Vマーク青 月刊ボランティア〜Internet Edition〜
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No.336 / 98年6月号

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【 特集 】 やっぱりボランティアは勤労奉仕より素敵!


 このご時世、新聞記事で「ボランティア」という文字を見つけないというほうが難しい。ボランティアを含めた市民活動にこれだけ関心が集まりだしたのは、やはりあの阪神・淡路大震災以降だと思われるが、マスコミが取り上げるボランティアは非常に好意的な感がする。 実際、読んでいて滅入ってしまうような不穏な出来事が多い中、ボランティア関連の記事は、「ボランティア活動をきっかけに広がる地域再生の輪」とか「ボランティア活動を通して心の教育を…」といったような明るい印象を与えてくれるものが多い。

 そんなマスコミによって浮き上がる「好意的ボランティア」像は、決して世論を揶揄するものでもなければ、停滞感の漂う社会に楽観的観測を演出しようとするものでもない。しかし、それは下手すると「ボランティアさえ持ち出せば何でも解決する」という風潮につながりかねない。

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 ともあれ、ものごとには様々な見方があるのだということを「ボランティア」という切り口で考えさせられる記事をここに紹介する。

 小学館発行の『SAPIO』誌・四月八日号にて「日本国大改造試案!『国民皆ボランティア』制度を提起する」という特集記事が掲載された。この特集では、五ページにあるように、日本人成人に一定期間、「ボランティア活動を義務化する」という制度を創設すべきだとの提案を@メイン特集(執筆者・林四郎氏)として掲載するとともに、その提案に対し、A各省庁のOBやB内外有識者のコメント並びにC海外事例も含めて報告している。分量にして約三十ページにわたる大々的な特集である。  冒頭のリードでは、この特集の意図として「日本人が『義務』というものをどこかに置き忘れ、『権利』ばかりを言い立てるようになったのは、いったいいつからだろうか」という出だしで始まり、以下のような趣旨が述べられている。  「戦後『国家』という概念そのものとそれに対する『義務』という考え方を嫌い、思考や議論のなかから排除してきた。…日本人は『国家』を失い、それと同時に『個人』を失い、また両者にあるべき関係も失って迷走をつづけている」。そこで「日本という国のために、いま私たちができることは何なのか」の答えとして、メイン特集で「国民皆ボランティア制度」の創設を提案しているのだ。

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 林氏の論じるメイン特集のポイントは以下のようになる。

 まず、「日本における高齢化社会を担うのはボランティア」ということだ。昔は、家族や兄弟が高齢者の面倒を見ていたものだが、少子化現象でそれもままならない構造のなか、いったい誰が面倒を見るのか? 税金で介護者を増やし、面倒を見ていく発想しかない現状はお金の問題がつきまとう以上、「国民皆ボランティア制度」導入が解決法だと林氏は説く。

 また、高齢者問題だけに限らず、植林治水・ゴミ問題も然り。「昔は、私が小中学生だったころ『勤労動員』されて、山に植林をしたり農家の手伝いもした」。そういった互いの共生のためのしくみ作りを「国民皆ボランティア制度」として再現してはどうかという提案である。

 さらに林氏は、日本人の再教育にこの制度が有効だと考えているようだ。今の若者に集団訓練を通じて「世の中には不条理な世界もある」ことを身をもって感じるさせる。自分の勝手気ままにはならず、国家のために何かすることにより、厳しさを体感することが必要だと彼は考え、青年たちの集団生活の教育の場として、「ボランティア活動」を義務的に取り入れるねらいのようだ。

 こうした提案の背景にあるのは、今の社会全体にたいする義憤といったところだろうか。「金満主義の日本をどうにかしなければ…」という焦りと、「責任もとらず義務も果たさず、他力本願な習性だけが身につき・・・頼りにするのは金だけだという社会になってしまったこと」への懸念。「個人は浪費、企業は増殖しつづけなければ生き残れない市場原理社会」への危惧。そんな日本の未来を考えると林氏の心配の種は尽きないのだ。

 「現在の日本が二十一世紀に生き残っていくためには、個人が多少犠牲になっても、こうした組織を通じて『国家に対するサービス』という考え方を実践することがどうしても必要である」と考えることから「根本的議論のきっかけ」のための提案として、この林氏の特集を締めくくっている。そう、この特集は「ボランティア」を通して今の社会を考えるようという提案なのだ。


『月刊ボランティア』はこう考える

 「SAPIO」誌の特集は、その記事そのものが意図する「今の日本のボランティア観を考える」のに、一つの材料を提起したと考えていいかもしれない。そこで林氏のメイン特集を題材にお借りして、『月刊ボランティア』編集委員によるリレーレポートという形で『月刊ボランティア』の考える「ボランティア観」を整理してみたいと思う。


「ボランティア」という言葉の耳当たりのよさ!?


筒井 のり子

 「ボランティア」ってなんて便利な言葉なんだろう! ボランティアとつけさえすれば、すべてがオブラートに包まれたがごとく、中身もはっきり見えないまま、スルリと飲み込みやすいものになってしまう。

 たとえば、福祉施設の「見学」と言えば「見せ物じゃない」と忌み嫌われるのに、「ボランティア体験」と言い換えたら、たとえ中身はほとんど変わらなくてもすんなり通ってしまう。「社長の掛け声による強制的な集団清掃活動」だって、「企業ボランティア」と言えば、煙に巻かれる。

 そこで、この林氏提案の「国民皆ボランティア」制度。これは、こうした「ボランティア効果」を利用したとしか思えない。だって、この内容はどう見ても「ボランティア」の仮面をつけた「国民勤労動員」制度だから。

 「一、すべての日本人男女は、満二十歳から四十歳までの二十年間のうち、総計で二年間(二十四ヶ月)、国家および国民に対してボラ ンティア活動をすることを義務と する」とある。

 今さら言うまでもないことなのだが、言っておかねばならない。ボランティア活動のもっとも本質的な意味は自発性にある。自発性とは何か。それはするかしないかを自分で決めることである。

 現在の社会状況に対する林氏の憂いはわからないではない。いや、社会を変えていきたいという思いでは、現在ボランティア・市民活動をしている人達も同じだろう。違いは、一人一人が気づき、考え、行動を起こすというプロセスを大切にするのか、無理矢理にでも何かの行動をさせることを重視するのかの差であり、それは市民社会を形成していく上でとても根本的な違いなのである。

 では、林氏はなぜ「ボランティア」という言葉を使ったのだろうか。先に書いたように、その言葉の持つ「効果」をねらったのだろうか。そうではなくで、真剣にこれが「ボランティア活動」だと思って書いたのだろうか。後者の場合、林氏のボランティアに対するイメージは次のフレーズに現れている。

「しかし、新たな制度を作って高齢者の面倒を見ようとすれば、常にお金の問題がつきまとう。お金をかけずにできる方法はないのか考えると、結局、ボランティア制度を導入するしか解決法はないのではないか。」

 すなわち、林氏の中では、「ボランティア=ただ(無償)」ということにつきるのだろう。もちろん多くのボランティアは、見返りとしての金銭的報酬はなくても喜々として活動している。しかし、それはその本人が自発的に参加しているからこそである。間違えてはいけない。無償だからボランティアなのではなく、自発的に、すなわち本人がやりたくてやっているから、無償でもかまわないだけなのである。強制されて、しかも無償の活動っていったい何だろう。

林氏及びSAPIO誌へお願い。まず「国民皆ボランティア」制度ではなく、より正確に「国民勤労動員」制度と言い直してほしい。もちろん「国民勤労動員」制度としても、その内容には様々な矛盾がある。それについては次の筆者にバトンタッチしよう。


「社会」への貢献と「国家」への貢献


牧口 明

 林氏の論点で気になるのは、「国家」と、「社会」の無意識的(あるいは意識的?)混同、もしくは同一視ということである。たとえばこういう表現がある。

 「ときには自分の勝手気ままにならず、しかも国家のために何かをしなければならない、そんな厳しさを体感することが今は一番必要なのではないか」

 「青年も中年も老年も、自らの意志でその組織に参加し、国家に対して自分はいったい何ができるのかを自らの体験の中から考えるべき時点に、いま私たちは立たされているのではないか」

 「ゆくゆくは、全国民が二十歳から四十〜四五歳頃までの間に計二年間、国家に対するボランティアを実践するようになればというのが私の願いだ」

 「個人が多少犠牲になっても、こうした組織を通じて『国家に対するサービス』という考え方を実践することがどうしても必要である」等々。どうしてこうも「国家」にこだわるのだろうか。

 例えば、右にあげた文章の「国家」という用語を、「社会」あるいは「共同体」と言い換えてみればどうだろうか? むろん、それでこの人の主張の全体が肯定されることにはならないが、いくぶんニュアンスは違ったものになるように思われる。なぜなら、歴史的に見て「国家」という概念と「社会」「共同体」という概念は別のものだからである。

 例えば、「人間は社会的動物である」という言葉があるように、「社会」は人類の発生と共にあったし、「共同体」も文明の発生と共にあった。言わば、「社会」や「共同体」は人間にとって自然的なものであるのに対し、「国家」は人為的な存在であるということが言える。だから、「人間社会」や「人間共同体」といった言葉に示されるように、ヒューマンな社会連帯の思想や共同体意識は、時に「国家」を超えて人間のつながりをつくり出すことができるのである。

 今日、日本にも諸外国にもさまざまな国際的ボランティア団体が存在しているが、それらの組織の多くは、決して「国家へのサービス(貢献)」としてそれぞれの活動を展開しているのではなく、なんらかの生活上の困難をかかえた人たちに対して、「一人の人間として」、「同じ人間共同体の仲間として」その困難を分かち合おうとしているのである。それは、国内でおこなわれているボランティア活動においても、基本的な性格としては変わらない。

 ボランティア活動は、基本的人権の平等性に立脚して社会的不公正を正し、すべての人の人間としての尊厳を守ろうとする「社会的な」活動ではあっても、「国家的利益」を無条件に善として、それに唯々諾々として従う「勤労奉仕活動」では決してない。  むしろ、本誌今月号の〈ことば〉(十三ページ)で取り上げている田中正造のように、困難に苦しむ人々と連帯し、社会正義を求めることが、「国家」にとっての利益とは必ずしも見なされない場合も少なくはない。

 もちろん、このことは、ボランティア活動というのは常にいつでも「国家」のおこなう行為に対峙し、批判的態度をとるということでは決してない。「国家」が、基本的人権擁護のために「国家」として(制度的に)なすべきことをなし、なおかつ市民によるボランタリーな関わりが求められる場面では、「国家」による制度的な対応に協力し、制度的対応ではなしえない、自由な市民活動ならではの働きを果たそうとするのである。

私たちは、「私たちの社会を」「私たちの手で」少しでも人間的な社会にしていくために、一人一人の市民の主体的な社会参加(あるいは政治参加)活動が必要であるとは考えているが、それは、ここで林氏が論じておられるような、「個人が多少犠牲になっても」上から強制するような「勤労動員」とは全く異質のものであると言わなければならない。


「お金がかかる」ことは、悪じゃない!


水谷 綾

 最後に、林氏の論考のなかで、彼がボランティアに執着する理由として、「お金のかからない」制度を確立したいということがある。そうなのだ。林氏は彼なりに今まさに目前にある「高齢化・少子化社会」について危惧しているのだ。それには、先出の筒井レポートで引用した「お金のかからない」制度こそが、その停滞感の漂う未来を打破しうる救世主だと考えているだろう。

 しかし、果たしてそうだろうか? 林氏の論点には、社会における経済機能を一面的に捉えているにすぎない点が二つある。

 まず、林氏の提案は、「満二十歳から四十歳までの二十年間の間のうち、総計で二年間」をボランティアの義務期間としているが、この間の彼らの生活そのものを考えてはいない。人には自分だけの生活でなく、養ったり世話をしたりしなければ家族がいる場合がある。 その人たちの生活の保障はどうなるのか? 現在、企業内ボランティア制度などを先駆的に取り入れている企業もあるにはあるが、この制度は一種の有給休暇であり、企業がその人の生活を保障しているものだ。で、早速、このアイディアは林氏の提案のなかにも取り入れられている。「ボランティア中は集団生活をすることとし、その間の賃金はそれぞれの雇用主が負担する」提案だ。これで明らかだろう。そう、結局、誰かがどこかでその活動者の経済的負担をしなければこの制度は成り立たないのだ。社会的に見たら一見無償のような制度だが、経済全体からすれば、そのサービスに見合うだけの「お金」はどこかで動いている。では、誰かが負担しなければならないという前提があるのなら、いっそのこと技術を持った専門家がサービスを提供することが効率的と考えるほうがすんなりくる。「企業がボランティアの生活負担をする」より、「専門家を雇ってサービスを提供する」ことにお金をかけることのほうが全体的効率も上がるだろう。さらに、大企業ならともかく零細企業など様々な規模の企業が存在する以上、すべての雇用主にこの制度の負担を強いるのは、所詮無理である。

 また、一日のボランティアなら余暇で済む。が、提案にもあるように、たとえ最短三ヶ月間と分散させたにしても、その総二年間という期間に若い活力のある労働の手を失うことは、経済性からいっても大きなロス(損失)となるだろう。

 二点目。確かにボランティアは「無償」の活動である。だからといって、それが「無償の活動=お金がかからない」ことにはならない。ちょっと考えてみてほしい。ボランティア活動は無償性がベースにあるが、それは無償だからといって何でも好き勝手にやっていいわけではない。ボランティア活動の発端は「私的」な動機からでも、そこには「公共性」も伴う。ただ、ここで行政と違うのは、その活動の公平性は絶対とされず、ボランティアをする当人の関心とペースで取り組める・楽しめる点にあると思う。

 そういった柔軟性を基本とするボランティアに「公共性」が関わってくる以上、「ボランティアとはいかなるものか?」を伝えるオリエンテーションも必要となってくるし、ボランティアと依頼者をつなぐコーディネーターの存在も不可欠となる。つまり、ボランティアの自発性をより高いものに育んでいける体制づくりが必要であり、そしてその体制作りのために「費用(コスト)」が発生してくる。

 また、ボランティアを受け入れる側も、ボランティアを迎える準備や段取りも大きな課題となるだろう。無償性は、「きてもらう」「していただく」といったような感覚が伴うことから、受け入れ側のボランティアに対するケア(関わり)は絶対必要となり、それは経費も同時に発生する。ボランティアといえども、結局、お金(コスト)はかかるのだ。

 さらに、岡本祐三氏のインタビュー(十ページ)にもあるように、林氏のアイディアには「受ける側の心理」が考慮されていない。
 ここで、義務を押しつけられた若者が、「ボランティアとは何か」を考えないままやってきて、高齢者を介護をすると想像してみよう。自分の身が不自由になった時、深い思慮をもたない若者たちが自分の身のまわりの世話を「義務的に」やってくれる。そこに、「こころ」は感じられるだろうか? サービスを受ける側は幸せだろうか? ある一部の「我慢」という教育のために、誰かが犠牲になってしまうこの構造は、一種、喜(悲?)劇的でさえある。

 それに、そもそも「お金をかける」ことは同等の価値と交換することであって、決して損をすることではない。お金を払うことにより、それに見合ったサービスを受ける。そのお金の価値に見合わないサービスは市場原理により自然淘汰されていく。この原理は、供給側の能力(サービス)をさらに発展させる力を持つともに、社会全体を経済的かつ質的な活性化を促すことになるのだ。

 なにかとダーティなイメージがつきまといがちな「お金(コスト)をかける」ではあるが、それは、「市場」を生み出し、職業を生み出す。この雇用の創出は、個人消費の増加といった経済効果を生むだけでなく、税収等も増加し、それによって社会保障制度の整備を進める効果も持つ。ボランティアが生み出すものは「暖かさ」だが、残念ながら、その「暖かいこころ」だけでは社会基盤(インフラストラクチャー)が整備されることはない。

 つまり、短絡的に「お金=悪」とするのではなく、「お金をかけるからこそ広がる幸せ」といったような経済学の原理を理解した科学的思考法を持つことで、牧口レポートで述べた「社会への貢献とは何か」をバランスよく考えられるのではないのだろうか。


情報に躍らされない市民に・・・


水谷 綾

 『月刊ボランティア』では、これまで本人も社会も活き活きするようなボランティア像を模索してきた。今回の『SAPIO』誌の特集に限らず、学校におけるボランティア評価や教員免許取得における「介護等の体験」などに見られる「制度としてボランティア活動を組み込んでいく」動きに対し、疑問を投げかけてきたのもこうした意図からだ。

 しかし、今回の『SAPIO』誌の特集では、どうしても私たちと議論がすれ違ってしまいやすい。というのも、林氏の説には「ボランティアは自発から始まる」という視点がまったく考慮されていないからである。つまり、本来は「無償労働」強制案である一つの提案に、「ボランティア」という一見温かな響きのいい言葉をひっかけたにすぎない。その意味で「自発性」を前提としない―つまり自発性の意味を重視しない林氏の論は、『月刊ボランティア』の考える「ボランティア」観とどうしてもすれ違ってしまう。

 では、なぜ自発性が重要なのだろうか?

 私たちは、何かに縛られたり、義務を押し付けられると、「やらなければいけない」という圧迫感から、気分的に「言われたことだけやればよい」といった閉じた姿勢になってしまいがちだ。つまり、個々の能力や個性の違いを活かすことのないまま、均一にものごとに対応していきやすくなる。そこには、個人の「してあげたい」気持ちから出てくる「暖かさ」や「優しさ」はなく、あるのは上から強制された「業務遂行」意識だけとなるだろう。

 誰からの命令でもない。義務でもない。自らの発意で自由に動ける時こそ、私たちはフットワークの軽い、創造的な動きができる。「やりたい」という思いは、「どうすればうまくいくだろう」「誰々にこれを聞けば情報がより迅速に入ってくるかな」といった人間の思考能力をより一層高める。そして、自分一人ではなかなかできないことを他と協働することにより、自分と違う個性を受け入れる姿勢にもなれる。自発的な取り組みから生み出される機動性や「違い」の受容こそ、ボランティア活動などの民間の非営利活動が「公平性」をモットーとした行政の機能を質的に上回っている点なのである。

 多様な個性が多彩な価値を生み出す可能性や、制度されていないものを作り出す開拓性こそ「ボランティア活動」に潜在する力だ。納税のように強制や義務が必要な場面もあるが、こうした自発性の長所・魅力について、もっと論じられるべきだろう。

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 こういった「ボランティア」観をもう一度考える意味で『SAPIO』誌の取り組んだ特集は、ひとつのいい契機だったかもしれない。それに、特集全体としてみると、「提案としてはおもしろいが、制度としては馴染みにくいのでは…」といった官庁OBの冷静なコメントに加え、いろんな分野の有識者の関心の範囲や高さを伺うのにわかりやすい構成になっている。また、海外のボランティア事例などは、日本の状況を相対化して理解する上で格好の材料でもある。こうした多角的な切り口のもと、『SAPIO』誌がこれだけの特集を組んだことは、やはり正当に評価したいと思う。

 それと同時に、かつては「一部の人が行う特別な活動」であったボランティアが、ここまで大きく取り上げられるようになったのは、ボランティア活動がある一定の「市民権を得た!」と解釈しても過言ではないのではないだろう。実際、『SAPIO』誌だけに限らず、多くのマスメディアがさまざまな形で取り上げるようになった。そこには、今回のように首をかしげざるを得ないような取り上げ方をしている場合も少なくない。しかし、そこで「それは間違っている」と切り捨てるのではなく、岡本祐三氏の言うように「関心」の高まりを喜ぶとともに、私たち自身が自分たちの力で「私たちのボランティアって何?」と考えることこそ必要だと思う。そして、十九世紀的とも言える強権社会への回顧といった一面的なアイディアに躍らされないだけの力を私たち市民も持ち合わせられるよう努力をしていきたい。



自分たちで考えて、社会に参加するという発想を・・・
神戸市看護大学教授
岡本 祐三 氏

 ボランティアという形で、今の「世紀末日本」の行く末を考えようとしていることは、樋口恵子さんなんかも言っているように「動機」としては悪くはない。ただ、明らかに本文中に「日本国改造」というような国家がチラチラするのは、ボランティアと馴染まないし、制度というもの自体も、基本的にボランティアには馴染まない。この特集のなかでも、お役人のOBのコメントなんかを見ると、ちゃんと「これは馴染みませんよ」と言ってます。特に国家的な問題に関してはね…。

 いろんな意味で、今、人々が「個人」というものをベースにして、人とのつながりを求めています。社会のなかの存在として「自分」というものを確認したいというようなね。そこで出てくる発想の一つが「ケア」ということです―自らが関心を持って関わっていくということ。そして、自らが関わっていくことによって、自分を確認し、自分を癒していくわけです。従来なかなか「ボランティア」という言葉が社会に馴染まなかった。しかし、こういう社会的背景のなかから、これまで積み上げてきた日本のボランティア活動っていうものが、それなりに市民権を得てきたことの表われがこの『SAPIO』誌の特集なんではないでしょうか。つまり、「ボランティア」社会に対して明らかに影響力を持ったことによってこういうレスポンス(反応)が出てきたでしょうね。

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 ただ、この特集のなかで「介護」についてピントがズレている点ついて触れると、介護というのは無償奉仕には馴染まないということです。なぜなら、これまでのそして現在もですが、日本の経済は個人消費によって伸びてきたというより、医療や福祉なども含めて投じたお金がきわめて有効に市民に還元されるように行政がリードしてきた一方的需要なんです。これらが日本経済の安定性を支えてる柱の一つだと思います、現実的にはね。

 だから、介護というのは、無償奉仕で対応できるものではない。コストがかかるんです。介護という責任を持ったケアを するためには労働契約もちゃんと結んだ上で、責任ある人々にやってもらわなければ、来てもらう方はたまらない・・・。

 さらに、この特集のなかで徹底的に欠けている点がある。一つは、介護という対人サービスに対して「受ける側の心理」というものがまったく考慮されていない。サービスを受ける側というのは、ただでさえ、苦境に立たされている。そのうえ、人(ボランティア)の善意に甘えて日々を過ごしていくというのは過酷なことです、プライドを持った存在としてね。介護が「人」対「人」のサービスである以上、相性が合わないことも生じたりするわけですから、受ける側にサービスの提供者を選ぶ権利を与えなければならない。

 二つめは、無償のままでは、サービスを提供する側の質がよくならない。サービスの選択性があることによって、提供する側の質も向上してくるわけです。ボランティアのように無償の場合、下手すると善意の押し付けだから、受け手がサービスというものを選べなくなるんですね。

 結局、責任を持ってやってもらうこと。つまり、職業化できることはボランティアにさせない。その人(ボランティア)が行かなくても、受け手の生活が決定的に困らないようなシステムでなければならないんです。つまり、ボランティアに必要なことって、職業化できないことをすることだと思います。その顕著なものが「友達」になることですね。こればっかりは職業化できないでしょう。ボランティアを通じて、友人(人間)関係を作って、その人の生活をより豊かにしていくことなんではないでしょうか?

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 これまでの日本は、なんでも国家主義的にやってきた部分はありますよね。「福祉は国の責任である。君たち(市民)は何もしなくていいんだ」というような…。でもこれは間違っていた。やはり、みんなが自立した市民として社会システム構築に責任を持って参加しなければいい社会にならないんだということこそが、二十世紀の教訓なんですよ。制度とシステムは絶えず内側から掘り崩して、いいものに変えていこうという参加的スタンスは絶対必要だと思います。そういうことを考えない「無関心」こそ怖い存在である。だから、この特集というのも、個人と社会の有り様というのを考える機会という意味で、いい議論ではあると思います。

(聞き手 水谷 綾)


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社会福祉法人大阪ボランティア協会