Vマーク青 月刊ボランティア〜Internet Edition〜
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No.328 / 97年9月号

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《特集》好きでもないボランティアをがんばって
〜活動から、どんどん「毒」が消えていく〜  


元来、ボランティア活動とは、時に社会の矛盾に向き合い、激しく「たたかう」こともある活動だ。しかし、最近、そのボランティア活動に、ことさら「善行」イメージが強調されている。

今号では、ボランティア活動を"無色無臭”化する動きをチェックし、本来のエネルギーを発露させるための課題を浮き彫りにしたい。


「内申(書)があるから先生にこびを売り、好きでもないボランティアや部活をがんばっている。学校では本当の自分を見せられない」(中三女子)。

 これは、今年八月一日付け、朝日新聞朝刊記事からの抜粋である。神戸市須磨区の連続児童殺傷事件に関する特集で、事件を起こした少年と同世代の生の声をテレビ朝日のニュース番組が呼びかけ、集まった手紙の一部として紹介しているものの一つである。

 「好きでもないボランティアをがんばっている」という少女の「本音」は、活動関係者としては非常に気になるものだ。この少女にとって活動は「苦役」であり、しかも内申書の評価を上げるために「演じるもの」となっているというのである。

 少女の「内申書があるから…」というくだりは、高校入試での「ボランティア評価」導入の動きに関連する。これは従来の「学力偏重教育」への反省から、高校入試の多様化をめざした検討の中で生まれたもので、一九九三年一月二十二日に文部省文部事務次官から全国の都道府県教育委員会等へ、通知「高等学校の入学者選抜について」が送付された。これを契機に、ボランティア活動体験が内申書で評価されることになったのである(詳しくは、当誌コラム「シリーズ・ボランティア評価を問う-評価制度はふぐの肝?」一九九四年七・八月号〜九五年一・二月号を参照)。

  この評価システムでは、ボランティア活動とは、いわば「よい子の証明」だ。生徒の「関心・意欲・態度」を重視する評価システムにより、「頭」や「体」だけなく「心」をも採点する時代になってしまったとの懸念を感じる。ともかくボランティア活動に参加していることが進学時の「評価」対象となり、それゆえ子どもたちは「好きでもないボランティア」をがんばるのである。

  入試が「ゼロサムゲーム」(※注1)である以上、「ボランティア活動をする者に加点すれば、活動に参加しない者を減点する」ことになる。「減点する」ということは、言わば、活動しない者を「罰する」ということである。本来、自由意志に基づく自発的な活動であるはずが、そのようなシステムが、「しなくてはならない活動」にしてしまっているのである。これは、とんでもないことだ。

つくられる活動イメージ

 かつて「ボランティア活動」は、奇特な人、変わり者がする活動というイメージが強かった。確かに、現在に比べるとボランティア活動に対する社会的な認知度は低かったし、ボランティアは、いわば「少数派」だった。また、住民運動や障害者など当事者運動のあり方も、行政、企業、マスコミ等を糾弾するといった「告発型」が主流を占めており、そのエネルギーの発露のあり方に、ある種の「毒」をもった活動というイメージを作り出していたのだろう。

 しかし、現在は、活動イメージが随分と変わってきていると思われる。

 原因はいくつか考えられるが、ひとつに活動の方法が、従来の「告発型」からNPO間のネットワークや、行政、企業、マスコミ等とのパートナーシップを重視するものに主流が移っていることが上げられるだろう。

 そしてもうひとつには、ボランティア活動に関する様々な取り組みが、活動イメージに対して影響を与えていることが考えられる。

 その一つが国の動きだ。今やボランティア活動の振興は「国策」的とさえ言える。厚生省、文部省を含む十八もの省庁が、なんらかのボランティア活動推進に取り組んでいる。例えば、厚生大臣表彰のように「ボランティア表彰」制度が国レベルで行われていることなどは、まさに「ボランティアは良いこと(善行)」というイメージを拡大していると言えよう。

 また、ボランティア活動の善行イメージ形成については、マスコミの動きも見逃せない。ここ最近の新聞記事の見出しを見てみても、「260キロ善意≠フ徒歩リレー」(毎日・七月十一日)、「南アで走る善意の銀輪」(読売・七月十三日)、「善意の巡回美術展」(読売・七月十五日)など、「善意」という言葉をタイトルに使う記事が目につく。特に「善意」という言葉そのものは使わなくても、ボランティア活動を「善意」や「善行」イメージで記事が書かれることは少なくない。

「ボランティア亡国論」

 しかし、「ボランティア」という言葉には、元来「善行」の意味はないのだ。英語の辞書を見ていただければ分かるが、そこにはこの言葉の起源となる意味として「志願兵」という言葉がでているはずだ。

 志願兵、すなわち「自らすすんで闘う人」という意味を持つ言葉なのである。つまりボランティア活動とは、時に社会の矛盾に向き合って激しく批判もし、「闘う」こともある活動なのである。

 「自発性とは、言われなくてもすることであると同時に、言われても納得できなければしないことである」(地元NGO救援連絡会議・草地賢一氏)という言葉は、ボランティア活動の本質をうまく言い当てている。決して「全体」におもねない、あくまでも「個」から発する活動なのである。なのに、「全体」の平均的な価値観の中に押し込まれ、冒頭の少女の言葉のように「先生にこびを売る」ような形でなされる活動は、本来のボランティア活動の対極にあるものと言える。

 「日本人というのは、本当に善意の好きな国民なんだね」という書き出しで始まる『ボランティア亡国論』という手記がある。かのビートたけし氏が、『新潮 』一九九七年七月号に掲載している。最近では、著名人が、ボランティアについて語ることは珍しくはなくなったが、ビートたけし氏は内容の趣きが違う。今年の重油流出事故へのボランティアの活躍に対するマスコミ報道等を例に、善意だけが強調される活動を批判し、「ボランティアは日本を滅ぼす」という論調なのである。「ボランティアというのが本来成立するためには、ブームだとかに惑わされない本当の個性が必要なんだよ。(中略)『自分の頭で考える』ことの出来る人間しかボランティアをやる資格が本来ない」とさえ言う。まさに、マスコミ等でボランティアが賞賛されているこの時代にあって、「全体」におもねない力ある発言である。

美談の功罪

 随分、古い論文だが、かつて東京大学総長であった日本の代表的な経済学者、大河内一男氏が、『社会的良心の免罪符「慈善行為」を解剖する-「美談」の社会的効用について-』で、以下のようなことを言っている。

 ある募金活動が一種の「美談」として、マスコミ等で扱われている状況を題材にして、「明らかに『美談』という形に編成されたニュースは、(中略)ほのぼのとした気もちを読者に与えるに違いないが、(中略)戦後の社会問題一般を個々の偶発的な問題として処理してしまい、それより深く問題の根幹にまで人々の眼がとどくことを遮る効果をもつものである」と「美談」の功罪について鋭く指摘する。美談は、真実そのものではない。それは、美しく、人の心をうつように演出されてこそ美談だからである。もし、大河内氏の言うように、例えばボランティア活動の善行イメージだけを増長するような「美談」が、社会的な問題や事実を覆い隠す作用を果たしているとすれば問題である。なぜなら、ボランティアが向き合う様々な社会問題は、決して「美談」で済むことではないからだ。

 例えば、障害者や在日外国人への差別の問題解決に取り組むボランティア活動が、「やさしさ」「暖かなふれあい」「なかよく手を取り合って…」という一面的な言葉だけで語られるとすれば、それは真実を伝えているとは言えない。

 確かに、「過去を引きずるのではなく、新しい関係づくりを!」と言ったキャッチフレーズは理解できるが、それは「過去を無視して」という意味では決してないだろう。「より深く問題の根幹にまで眼をとどかす」には、まずは過去、現在の不条理を理解することが求められる。

ブームだからこそ鎮めを!

「いつでも、どこでも、誰でも、気軽にボランティア」のスタンスで活動を推進するなら、美談は、活動をあおるのに最適であるかも知れない。しかし、実際の活動には、重さや暗さ、時には「不条理との闘い」のような、いわば「毒」をともなうものもある。

 「活動希望者は増えているけれど、在宅障害者からの依頼のような少し重い感じで受け止められがちなニーズに応えてくれる人は少ない」とボランティアセンターのコーディネーターの嘆きを聞いたことがある。それは、その活動が、気軽さや楽しさだけを求める希望者とはマッチしないからだ。

 本来、ボランティア活動の楽しさは、社会の様々な問題に向き合う中での気づきや学び、出会い、そして問題解決に立ち向かう充実感等から生まれるものである。いわゆるリフレッシュだけを目的にするようなレジャーの楽しさとは質が違う。

 「煽(あお)りの文化と鎮(しず)めの文化の両方が必要である」とは、播磨靖夫氏(奈良たんぽぽの家理事長)の言葉だ。確かに、震災以降、ボランティア活動への一種の「偏見」がとりはらわれつつあり、活動希望者が増えている。しかし、そこで「美談」で煽るばかりではなく、逆に活動にともなう「毒」を排除せず、しっかり受け止め、「美談」ではとどまらない活動の深さを伝えることが求められるだろう。

 それが、冒頭の少女のように、教育システムの中に自己を押し込まれ、先生にこびを売るようなことなく、本当の自分―自発的なエネルギーを発露できる「生き生きとした個」を育むことにつながるのではないだろうか。

      編集委員 川口謙造

※注1 プレーヤー間の合計(サム)が常にゼロになるゲーム。例えば麻雀。  

(編集委員 水谷 綾)


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