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このところアメリカで取り上げられているいろいろなニュースに、私はボランティアの本質について考えさせられました。政府が絡んでくると特にそうです。そもそもその状況が正確なところ何を意味するのか、私に確信があるわけではありません。とにかく、私が知っている情報を皆さんにも知っていただいて、じっくり考えてみたいのです。そして皆さんにも議論に加わっていただきたいのです。
まず、私も同僚のリーニー・マーシャル(Reenie Marshall)から聞いたばかりなのですが、昨年の初めから下院の委員会で徴兵制を復活させようという法案の審議がおこなわれています。下院第163号法案「徴兵制復活法案(Universal
National Service Act 2003)」です。この法案によれば、男女ともに、ごくわずかの例外を除いて、兵役か(良心的兵役拒否者の場合)コミュニティー・サービスに狩り出されるというのです。驚くべきことに、この法案についてはほとんど報道されていません。リーニーは自分が購読しているニュースグループで知りました(http://www.collegian.com/vnews/display.v/ART/2004/01/20/400cb6a2c7decの挑発的な論調の記事を参照下さい)。私も少し調べてみました。コモン・コーズ・アクション・センター(Common
Cause Action Center)でもう少し詳しい情報が得られます
(http://causenet.commoncause.org/afr/issues/bills/?billnum=H.R.163&congress=108&size=full)。The Subcommittee on Total Force(「総合的兵力に関する小委員会」)の議長スタッフにも問い合わせてみました。この法案はほぼ1年にもなるのにこの小委員会の懸案になったままなのです。
ベトナム戦争の終結以来、アメリカ合衆国軍は自らを誇らしげに「志願者(Volunteer)だけからなる軍隊」と称してきました。もちろん、ここでは兵士が強制されて軍務につくのではないという意味であって、無償であるということではありません。軍当局は今のところその売り込み手法を変えてはいませんが、一方、護国隊(National Guard, 訳者注:州兵で組織される全米部隊)に志願して現在イラクで任務についている多くの人達が、国外に赴くよう命じられたというのもまぎれもない事実です。「志願兵」という言葉は軍では長い歴史があり、たびたび戦いに正統性を与えてきました。アメリカ独立戦争の時もそうでした。けれども徴兵制が本当に復活するなら、「ボランティア」という謳い文句も姿を消すことになります。
次に、人々の注意をほとんど惹きませんでしたが、新カリフォルニア州知事アーノルド・シュワルツネッガーはその職務に伴う175,000ドルの給与を辞退しました
(http://www.sacbee.com/content/politics/story/7830085p-8770783c.html)。これで彼も同様の行動をとった錚々たる公職者達のリストに連なることになるわけです。ジョン・F・ケネディーやネルソン・ロックフェラーもそうでした。意外でしたか?世に知られているこういった人々に共通するのが「ボランティア」であるとはたいていの人には思いも及ばないでしょう。いまここに挙げたサクラメント・ビー(Sacramento Bee)の記事は、新カリフォルニア州教育長リチャード・リオルダン(Richard Riordan)が大変な資産家で、ロサンゼルス市長在任中に給与を受け取らなかったとも指摘しています(ただし、今回の職については受け取るようです)。
こういった無償の公職者の場合、誰もあえてその正統性や能力を問おうとしないというのは変だと思いませんか。ただ、場合によっては、給与を辞退することにした人も法律上、それぞれ被雇用者として公簿に記載しなければならないので、年間1ドルは受け取る必要があるのだということです。おそらくこれもまた、公務員やその組合がボランティアに対して示す抵抗感の表れなのでしょう。他人が自らの時間をボランティアに費やすのを認めないということが何を意味するのか、私にも分かりませんが、これも考えてみる価値はありそうです。
旧ソビエト連邦の同僚たちの語るところによると、共産政権は国家のための強制的かつ無償の労働日にボランティアの概念を結びつけることで、その概念をいかにも不当に利用していました。現在、どのような「義務的奉仕活動」にも強く反対する人々が、多くの国で同様の懸念を抱いています。特にそれが学生の必須科目であったり、従来の刑罰に代えて裁判所が命じるものであったりする場合には反対しています。こういったものは強制的で金銭報酬を伴いません。
逆、すなわち自発的だが有償であることは、平和部隊(Peace Corps)、アメリコア(AmeriCorps)、国連ボランティア、その他同様のプログラムをボランティアの一部とみなすべきかを問うときに論じられます。「有償」といってもこういった場合は大方が生活費であって本来の意味での給与ではないと主張したがる向きもあるでしょう。けれどもボランティアの生活維持費と非常に少ない賃金とはどう違うのでしょう。報酬と諸手当を全部合わせると最低賃金レベルになる平和部隊のメンバーだっています。政府が最低賃金を、どうにか生活を維持できる賃金だとみなしている(これは大いに議論の余地ありですが)にもかかわらず、なぜ私たちはアメリコアなど人々が賞賛を惜しまないプログラムを「自発的な自己犠牲」だと言い募るのでしょうか。
ボランティアを取り込むのは政治的には容易なことです。公職に就いている人々は(世界のどこであろうが)、市民が関わっていくことの重要性について語ります。けれども皮肉なことに、ボランティアがまさに躍起になってしていることは、公共の利益のためであるにもかかわらず政府がしていないことである場合が多いのです!政府はしばしば市民のボランティアプロジェクトを歓迎しては、貧困な経済という窮状や公的なセーフティネットの破綻を埋め合わせようとします。リンダ・グラフ(Linda
Graff)はその"Genetic Engineering of the Volunteer Movement"(『ボランティアムーブメントの遺伝子組み換え』)というエッセイでこのあたりを極めて見事に描き出しました。このエッセイは、昨年の夏に私たちが出した"Rants
and Raves Anthology"(『罵詈雑言集』)のために彼女が書き下ろしてくれたものです(今でもhttp://www.energizeinc.com/xmlEi/solo.php?fzg_navGrpBtn=5-211-E-1にて無料で入手可能)。全米フリーダム・コア(Freedom Corps)、イギリスのミレニアム・ボランティア(Millennium
Volunteers)などの活動や旧ソビエト連邦の国々などに相次いで設立されているナショナル・ボランティア・センターに喝采を送ることもできるでしょう。けれども政府がそのようにボランティアに関心を示すというのは、羊を装った狼なのではないでしょうか。判断するのは皆さんです。
気にかかる点をいくつか挙げておきましょう。
- こうした状況で「ボランティア」という言葉を使ったり不問に付したりすることが、ボランティアリズムにかかわっている私たちに何か影響を与えるとしたら、それはどのようなものでしょうか。
- 強制的だが無償だというのと有償だが自発的だというのとでは、どちらが私たちにとってより大きな問題を孕んでいるでしょうか。そして、それはどういった理由からでしょうか。
- こういったプログラムの参加者の中に、最終的には「本来」のボランティア活動にかかわってゆくようになる人がいるというのは事実だと私は思います。あきらかに、学生の多くが必須とされている以上の時間をボランティアに注いでいます。受刑者の中にも定められた時間を務めあげてからもボランティア組織にとどまることになる人がいます。アメリコアや平和部隊のメンバーもこうした活動に生涯深くかかわってゆくことになります。他にも例はありますが、それではどうすれば可能な限りこのように事が運ぶようにできるのでしょうか。
- たとえばシュワルツネッガーが無償で執務しているなど、余り知られていないボランティアの事例をもっと人々に知ってもらうよう努めるべきでしょうか。そうすれば、どういった人がどういった理由でボランティアをするのか、人々がもっと期待をもって見るようになるでしょうか。
こういったことについて是非皆さんのご意見をお聞かせください。 |