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中島大水路哀話
前 略
「おじいん、よう話しておくれやんした。借金返しや資金づくりに、乙訓郡の油屋で、汗水たらして働いてくれとるお父うや、住吉の干鰯(ほしか)問屋に奉公しとる五助兄の分まで頑張って、誰にも負けんように、みんなで励みまひょ」
延宝六年三月十古の朝まだき、闇をついて待ちに待った仕事始めの合図の太鼓が、村々に鳴り響いた。
まだ水の引かないぬかるみを、トメ吉たち一家は、手に手に鍬やつるはしを持って、集合場所へと急いだ。
村々を挙げての、川作りの大仕事は、日夜を次いでこの年の十一月まで続き、後に「中島大水路」と名付けられたこの川は、すべて百姓たちの手によって完成した。
田畑に余る水が、水門を開くと同時に、白いみずしぶきをあげて、下流へ下流へと走るのを見た時、大人たちは手にした道具を高くかざして歓声をあげ、トメ吉たちは、水の流れと競うように、自分たちが積み上げた堤の上を走った。
みんな、
「これで孫子の代まで、もう水に悩まされずに安心して暮らすことができる。ありがたいこっちゃ!」
と、喜びあった。
しかし、その完成を喜んだのも束の間だった。
翌年の四月十日の朝、走り役が川筋の村人たちに、疾風(はやて) のように悲しい知らせをふれて廻った。
百姓たちのあまりに見事な治水工事のあり様に、すっかり面目を失ったご公儀は、
−この治水工事は、幕府の許可を得ずに勝手に断行したもの。ご公儀に対して、百姓たちの間に、不穏の動きあり −
と、噂を立てた。
ご公儀に立てつくのは、きついご法度。
この成り行きを心配した総代である三人の庄屋は、二十二ヵ村の村人たちの身を案じ、その安全を守るために、お互いが申し合わせの上、治水工事の責任をとって、昨日、自害して果てなさったというのだった。 村人たちには、けっして動揺を与えぬように、自害の場所はかたく伏せられたが、誰言うとなく、
− 細目木社(さいのきしゃ)の森だ!−
と、伝えられ、村人たちはその方角に向かって、手を合わせて涙にくれた。
トメ吉と五兵衛じいは、それから三日後、いちめんに咲いた菜の花畑で、天高く飛翔して、声の限りにさえずる雲雀(ひばり)の声を聞いた。
それは、あたかも三人の庄屋さまが、空から地上を見下ろして、
−ここは、われらの土地やぞぉ!−
−実り豊かに! −
−永久(とわ)に豊かに −
と、二人に告げているようだった。
(完)
ここに記した物語は、わたしが住む大阪市東淀川区淡路の地域に、昭和三十年代まで流れていた「中島大水路」という川の成り立ちを題材にして、語りに仕立てたものです。
現在、「中島大水路」は、東海道新幹線の高架の下に埋もれてしまい、その姿を留めていません。町の様子はすっかり変わってしまいました。
しかし、江戸時代の中期に、地域住民の苦労を重ねて作られた「中島大水路」は、現在の東淀川区の淡路から此花区の伝法まで9.5五キロメートルの長さがあり、その流域に住む人々の生活用水路として、その当時からずっと十二分に機能を果たしてきたのです。
その後、明治三十二年の淀川大改修によって、その役目をおえました。
後 略
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